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失敗は経験になる 〜傷を勲章に変える時〜 | 【船長への羅針盤 第5話】

海が教えてくれたこと

「失敗は成功のもと」という言葉がある 。世の多くのビジネス書には、失敗を恐れずに挑戦せよ、そこから学びを得よと、耳当たりの良い平易な言葉で書かれている。しかし、当事者にとって、失敗の渦中にいる瞬間ほど惨めで、情けなく、逃げ出したい時間はない。どれだけ入念に準備を重ねても、どれだけ真面目に、誠実に仕事に取り組んでいても、私たちは人間である以上、必ず失敗を犯す 。

だが、本当に人をプロフェッショナルへと成長させるのは、華々しい成功体験ではない 。むしろ、思い出すたびに今でも胸の奥がキリキリと痛むような、あの無様で、惨めな失敗の記憶の方だ 。

大型コンテナ船の船長となった今でも、ブリッジ(船橋)で若い航海士や部員たちが、自らのミスによって肩を落とし、深い絶望の淵に沈んでいる姿を目にすることがある 。そんな時、私は必ず思い出す出来事がある 。新人だった頃、自分の未熟さを嫌というほど思い知らされた、ある日の出来事だ 。

私はあの日、失敗そのものの回避方法ではなく、犯してしまった「失敗との向き合い方」を、逃げ場のない海の上で骨の髄まで学んだ 。そしてその教訓は、二十年以上経った今も、私のリーダーシップの根幹を支え続けている 。

あの日の海

海上保安庁の巡視船に配属されて、まだ数ヶ月が経った頃のことだった 。船乗りにとって、最も基本でありながら、同時に最も緊張が走る局面の一つが「入港・係留作業」である 。係留とは、船を岸壁へ固定するために、太いロープを取る作業だ 。港へ入るたびに行われる基本中の基本である 。

しかし、その「基本」が、新人には驚くほど難しい 。船は大きく、ロープは重い 。何より、着岸における失敗は、組織において絶対に避けなければならないものだった。もし強風や強い潮流といった悪天候に見舞われれば、入港の難易度は跳ね上がる。時には、船尾から繰り出されるホーサー(極太の係留索)の強い張力だけを支えにして、船体の姿勢をミリ単位で制御しながら着岸させなければならない局面もあるからだ。

だからこそ、諸先輩方は常々言っていた。 「気象条件に恵まれている時ほど、慌てず確実に作業をこなして、体で練度を上げろ。凪(なぎ)の日にできない人間に、時化(しけ)の海を乗り切る資格はない」と。

その日、海は穏やかだった。絶好の訓練日和であり、着岸作業の基本を確実に行うための絶好の機会だった。甲板にはディーゼル機関の重厚な振動が伝わり、船体がゆっくりと岸壁へ近づいていく 。先輩たちの鋭い声が飛ぶ 。 「係留索準備!」 「前方よし!」 「後方よし!」

私は緊張しながら持ち場についた 。失敗したくない。迷惑をかけたくない 。その気持ちだけは人一倍強かった 。私が担当したのは、直径六十四ミリにも及ぶ「クレモナ索」の取り回しだった。水を吸い込んだそのロープは、新人の腕には恐ろしく重く、まるで意思を持った生き物のように硬くうねる。

だが、緊張は時として判断力を奪う 。船体の動きに合わせ、係船ドラムからロープを素早く繰り出さなければならなかった。焦るあまり、私はロープを誘導する「フェアリーダー(索導器)」を経由させる方向の確認を怠ってしまった。 ロープがドラムからフェアリーダーを介して岸壁へと至るルートを、ほんのわずかに間違えたのだ。

一瞬だった。経由方向を誤ったロープ同士が、凄まじい摩擦音を立てて互いに激しく擦れ合い、ガチリと噛み合って動きを止めた。 「止まった!」 誰かが叫ぶ 。ロープが引っ掛かり、滑らかだった作業全体が完全にストップした 。現場の空気が一瞬で氷結する 。

「何をやっている!」 先輩がすぐに駆け寄ってきた 。私は必死に噛み込みを解こうとした 。だが、焦れば焦るほど指先が硬直して動かない 。失敗への恐怖による冷や汗で、作業手袋の中は信じられないほどぐっしょりと汗ばんでいた。先輩が私を突き飛ばすようにして割り込み、強引にロープを解き放った。

幸い、気象条件が良かったため船体が流されることもなく、事故にはならなかった 。だが、現場の流れを止めたことは事実だった 。

作業終了後、私は先輩に呼ばれた 。厳しく叱責されることを覚悟した 。 「お前はただ手順をなぞっているだけだ。ロープがどの方向に引っ張られ、どう擦れ合うか、なぜ頭の中でシミュレーションしなかった? 凪の海でこんなミスをしていたら、時化の時には船を壊すぞ」

実際、かなり厳しい言葉だった 。新人時代の私は、その言葉が胸に深く刺さった 。自分なりに頑張っていた 。誰よりも真面目にやっていたつもりだった 。それなのに、完璧な凪の海で失敗した 。情けなかった。悔しかった 。

その夜、当直室のベッドに横になっても眠れなかった 。天井を見つめながら、何度も作業の場面を思い返した 。 なぜ失敗したのか 。自分には向いていないのではないか 。また同じ失敗をしたらどうしよう 。考えれば考えるほど気持ちは沈んでいった 。

翌朝、私は少し早めに甲板へ出た 。誰に言われたわけでもない。昨日の失敗が頭から離れなかったのだ 。 誰もいない静かな甲板で、私は直径六十四ミリのクレモナ索の手触りを確かめながら、ドラムからフェアリーダーへの流れを一つひとつ再現した。どこでロープ同士が擦れ合うのか、方向をどう変えればスムーズに流れるのか。

すると原因が、霧が晴れるように見えてきた 。焦っていた私は、ロープが自然に流れる方向を全く考えていなかったのだ 。先輩たちは経験から、その「物理的な意味」を無意識に理解して動いていた 。だが私は手順だけを覚えていて、意味を理解していなかった 。

その後も私は空いた時間を見つけてはロープを触り、フェアリーダーを通るルートを目に焼き付けた 。先輩たちの作業を観察し、質問も重ねた 。同じ失敗を繰り返したくなかったからだ 。

数ヶ月後。激しい横風が吹き抜ける別の港で、再び係留作業を行った 。 以前なら緊張で固くなっていた場面だった 。しかし今度は違った。風に流される船体の動きを予測し、ホーサーにかかるテンションを計算しながら、ロープの動きを完全にコントロールできた 。どこに注意すべきかも分かっていた 。作業は問題なく終わった 。大きな達成感があった 。

その時、かつて私を激しく叱った先輩が言った 。 「前に失敗した時より、ずっと良くなったな」 短い言葉だった 。だが、それはどんな称賛よりも嬉しかった 。私はその時ようやく気付いた 。失敗は終わりではない 。失敗は、本当の学びの始まりなのだと 。

船長としての視点

船長になった今、私は若手の失敗を見る立場になった 。もちろん、失敗はない方が良い 。事故は防がなければならない 。だが現実には、人は失敗からしか学べないことがある 。

問題は失敗そのものではない 。失敗した後に何をするかだ 。原因を考えるのか、他人のせいにするのか、隠すのか、それとも向き合うのか 。そこに成長の分岐点がある 。

私はこれまで多くの優秀な船員を見てきたが、その共通点は「失敗しなかったこと」ではない 。むしろ、環境に恵まれた凪の日に大きな失敗を経験し、それを貪欲に教訓へと変えた人ほど、時化の海で圧倒的な強さを発揮した。なぜなら、自分の弱さと、基本の裏にある本当の意味を知っているからだ 。

人は成功すると、自分の実力を過大評価しやすい 。だが失敗は、自分の限界を教えてくれる 。その痛みを受け入れた人だけが次の判断を変えられる 。

ビジネスの現場でも、全く同じことが言えるのではないだろうか。条件が良く、予算や納期に余裕がある「恵まれたプロジェクト」の時に犯したミスこそ、最大の教科書である。そこで慌てず、なぜプロセスが擦れ違い、ボトルネック(フェアリーダー)で噛み込んでしまったのかを徹底的に検証する。その泥臭い向き合い方こそが、将来の「大時化のプロジェクト」を救う強力な判断軸を育てるのだ。

逆に危険なのは、失敗を隠す人だ 。失敗そのものは経験になるが、隠された失敗は学びにならない 。同じ場所で再び事故を起こし、組織全体の損失になる 。だから私は若手に言う。失敗したことを恥じる必要はない。恥じるべきなのは、失敗から目を背けることだと 。

羅針盤の一針

あの日、係留作業でロープを擦れ合わせ、噛み込ませてしまった新人は、手袋の中の汗とともに情けなさでいっぱいだった 。だが、その失敗があったからこそ、私はロープが持つ意味と、凪の日に練度を上げることの本当の価値を理解できた 。

振り返れば、あの失敗は遠回りではなかった 。時化の海を生き抜く船長になるために、必要な授業料だったのだ 。

失敗は経験になる 。 隠した失敗だけが傷になる 。

(第5話 了)

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