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◎タオ教授

 もし今タオ教授の頭の中に入り込めたなら、目くるめく神経細胞の網の目が信号の流れに応じて烈しくきらめき輝いているのを確認できたろう。シナプスに溢れる情報伝達物質が岩礁に押し寄せる荒波のように渦巻き砕ける様も見えたに違いないし、耳をつんざく轟音までもが聞こえたかもしれない。
 教授は今長い研究の最終段階にいた。過去においてもしばしば教授自身、冗談ではなく脳に突き立てる放熱板の必要を感ずることもあったし、頭の中に勢いよく高速回転するモーターのうなりを聞くこともあった。それはペンを置いた後もしばらくは鳴り響いて止むことがなかったし、椅子から立ち上がろうとするとよろめいて、ジャイロとなって回転する大脳の存在を実感するのだった。しかし今日の教授の震える脳細胞の興奮は過去の比ではない。教授は言わば没我の境地にいるかのようだった。意識の外でペンが勝手に走って計算用紙を何枚も埋めて行き、論文草稿は今日さらに4行進んだ。
 宇宙創造の秘密を明かすための8年にわたる研究生活だった。6年は関連論文を精査し、枝葉を整理し、あるものには反論し、またあるものにはさらに論点を推し進め、自身の始原論に慎重に道筋をつけるのに費やされた。何本かは行き止まりを確認するだけのために数カ月を要するような脇道ではあったが、本筋を逸らそうとするものすべてを一本一本根気よくつぶしていった。それは全くの無駄ではない。世界の優秀な頭脳相手の論戦は時に激しく、時に楽しく、その過程で教授自身多くを学んできたのだった。頂上を予想できたのがやっと1年前のことである。あと一月と予感できたときゴールはまだくっきりとは見えていなかった。最後の三日は飲みも食いもせず、寝ることも忘れただひたすら問題に没頭した。そして今日教授はその行き着く先の輪郭をしっかりと捕らえていた。朝のうちに解くべき最終方程式を書き上げたのだ。
 タオ教授はこの20分微動だにせず第4項の時差分確率変数をじっとにらんでいた。直感はこの項を時量子化集合関数の関連で落とせるはずだと告げていた。大脳が回転数を上げ、バーコフの17次元超弦論の演繹がひらめいた。草稿の前半部分で論及したものだ。そうだ、係数の真宇宙定数が確か……。
 あとは一気呵成だった。多次元宇宙のブレイン接合線を連立させて、項を消去し、みるみる計算用紙が文字と記号に埋まっていった。そして7枚目の半分を過ぎたとき、そこに最終解が書きつけられた。その式の並びは見たことのない、対称性も鮮やかな、たまらなく美しい姿をしていた。添えられた教授の発明による画期的なダイアグラムが飛び跳ねる優雅なデザイン画に見える。これは一体何だ? 教授は興奮に震えるペンをゆっくり置くと、その解の物理的解釈を検討し始めた。そうか、分かった! そうなんだ!
 やがて興奮がやや冷めて、下書きをきれいに整えようと思い至ったそのとき、教授は激しい喉の渇きを覚えた。時を知らず過ぎたこの三日間、教授が蓄えていた生命維持のエネルギーはほぼすべてが思索活動に消費されていた。
 渇きに体が震える。水だ! 立とうとしてよろめき、椅子を蹴って倒れ込んだ。だめだ。腕を伸ばすも起き上がれない。水への渇望が人生を懸けた大発見の喜びを凌駕し、タオ教授はそのまま闇の中に落ちていった。

 痩せ細った腕と空っぽの胃を見て、検視官は今の世には珍しい餓死だと結論した。書き散らされた紙の束は集めて関係者に託されたものの、タオ教授の解説抜きに内容を理解できる者はなく、読み進む順番すら判然としなかった。宇宙生成の究極真理の大発見はこうして人類の手を離れ、文字通り宙に浮いてしまった。


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