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2晩だけの魔法の冷蔵庫

「バナナケーキ……」

 5時のチャイムが通り過ぎたころ、唐突に旦那がそうつぶやいたのには訳がある。
 7月の下旬が誕生日の旦那に、誕生日ケーキとしてバナナを使ったケーキを作ることを約束していたのだ。

 その日は、和歌山の旅から帰ってきて4日目。旦那の誕生日からは、2日が経過したタイミングだった。
 旅行から戻った翌日からお互いなにかと予定があって、体力がゴリゴリに削られる日々を過ごしていた。そんなわたしたちにとって、ひさびさに嗅ぎなれた我が家でごろごろと過ごしていたのがこの日である。
 旅行でたらふく美味しいものを食べたこともあって、胃もたれを恐れた30代夫婦はケーキを食べるのは誕生日当日からずらした日にしよう、と決めていたのだ。だから、当日を過ぎても約束がまだ守られていなかったのである。

 私には、算段があった。旦那が8月からの新しい職場で働き始めてから、サプライズとしてケーキを焼こうと思っていたのだ。
 職場が変わるというのは、かなりストレスがかかることである。まだよく知らない間柄の人たちと、これまでと違う取り組みに日の3分の1を費やすとなれば、疲れて当然である。
 だから、新しい職場で旦那が一日出社するタイミングを見計らい、仕事疲れへの労いもかねてこっそりとケーキを用意しておこうと思っていたのだ。

 しかしそのこっそりの算段を知る由もない旦那は、疲れている妻にねだることに引け目を感じつつもリクエストのバナナケーキをいつかな、いつかな、と心待ちにしていたらしい。
 そんな健気なわくわくがぽろっと口からあふれた結果が、唐突な「バナナケーキ……」という一言だった。

 旦那大好き人間である私がそのつぶやきを聞き漏らすなんて当然あるわけもなく、「バナナケーキ食べたいの?」と聞けばコクコクと小さく頷く。
「今日食べたくなっちゃったのね?」と追い打ちをかけてみる。最初はもう夕方だし、作るのが大変だろうから今日じゃなくていい、と遠慮していたが、バナナケーキという単語を聞けば聞くほど食べたくなってきてしまったらしい。最後には「ウン…」と遠慮がちに目を合わせてきた。

 私は、唐突な予定に対応できない人間である。突然のお出かけだとか、急な大仕事に取り掛かるということは、最低でも1日以上前から決まっていないと動けない。その予定を成し遂げるためだけに、前日からなにかとシミュレーションしないと安心できないのである。
 それでも、「あ、ケーキ作ろう」と思った。なんでかわからないけれど、申し訳なさそうに布団で小さくなっている旦那をみて、すぐにでもケーキを作ろうと思った。窓の向こうに見える空が、まだ昼間と夕方のあわいの明るさだったことにも背中を押されたのかもしれない。

「よし、じゃあ作ろう!」とベッドから飛び降りた私を見て、旦那は目を丸くして驚いた。カフェに行くことすら当日に決まったとなれば腰が重いような人間が、急にやる気を出したのだから驚くのも無理はない。

 幸いなことに、材料はほとんど揃っていたので2つ3つの買い物だけで済みそうだ。近くのスーパーで材料をそろえて、すぐにでも取り掛かることをつたえると、「おれも一緒に行く」と買い物についてきてくれた。

 なにを作るかは、もともと決めてあった。バノフィーパイだ。イギリス発祥のバナナを使ったあまいパイで、メインの具となる「バナナ」と「トフィー」の単語を掛け合わせた名前らしい。
 以前アップルパイを焼いた際のパイシートがあまっていたので、テーブルに出しておく。パイシートの解凍を待っている間、往復10分程度のスーパーで簡易トフィー用のキャラメルと、生クリーム。それから追加のバナナを買い足す。せっかくの誕生日ケーキだから、いつもより少し値の張るバナナを買おう。大事な人のために使うお金ほど、有意義な出費はないと思う。

 家に戻れば、パイシートは程よい柔らかさになっていた。2枚のシートを重ねて慎重に伸ばし、21センチのタルト型に敷き詰めていく。
 パイシートにフォークで穴をさしていると、ちょうどオーブンが予熱完了の鼻歌を歌った。タルトストーンなんておしゃれなものはもっていないので、一回りちいさなグラタン皿を重しがわりにかさねて、オーブンの中へ。きれいに焼けますように、と心の中で呟きながらふたを閉じる。

 バノフィーパイは、最初にパイだけを焼いて、そのあとに具をのせるタイプのパイだ。あと用意するものはトフィー、カットバナナ、それからホイップクリーム。
 どれもそんなに時間がかかるものでもないし、パイの焼き上がりと粗熱をとる待ち時間を考えたら、少し休憩時間を挟めそうだった。パイが焼きあがるまで、テレビを眺めながら煙草を吹かす。

 気が付けば旦那はベッドで寝息を立てていた。規則的にきこえるぐうぐうという寝息に耳を傾けていたら、パイが焼ける香りが漂ってくる。
 人間って、本当に寝ているときに「ぐうぐう」って言うよなあ。とか、部屋中に広がったバターの幸せな香りに包まれて、きっとにっこにこで目を覚ますんだろうなあ。とか思っていたら、あっという間にタイマーが音を立てた。

 オーブンを開けると、もわっとした熱気とこれでもかという香ばしい匂いが顔中にぶつかってきた。
 どうやら重しがきちんと仕事をしたようで、パイが膨らみすぎることもなく綺麗に器の形を保っている。焦げがついている様子もなく、一安心。
 今度は、重しを重ねた部分が生焼けにならないように、重しをとって追加で10分焼く。

 きっかり10分追加で焼き切って、2回目のタイマーが音を鳴らした。
 オーブンをあけて、放熱しながらパイ生地の粗熱をとる。綺麗なきつね色に輝くパイを見て、だんだんと気分が上がってくる。
 パイが冷めるのを待っている間に、キャラメルを量って簡易版のトフィーを作り、盛り付け用のバナナをカットする。タルト型が手で触れるくらいに冷めたら、パイを取り外して、ホイップクリームを作る。

 ホイップをかき交ぜていると、「なんかずっといい匂いがしてる!」といいながら旦那が目を覚ました。想像していた通りのぽやぽやの笑顔で、こっちまで幸せな気持ちになる。「もう少ししたらできるから待っててね」と声をかけたら「楽しみい~!」といいながらベッドでぼよんぼよんと跳ねた。

 しっかりと熱の取れたパイ生地に、トフィーを流し込む。その上に、カットしたバナナを山型になるように、たっぷりと重ねていく。
 積み重なったバナナの山を覆い隠すようにホイップクリームをコーティングして、あまったバナナの輪切りで山辺をぐるりと囲った。
 最後に、コーヒーパウダーを山頂に振りかけて、バノフィーパイの完成である。

「できたよ!」

 はじめて作ったにしてはなかなかの完成度に、気が付けば私の方がテンションが上がっていた。出来立てのパイを見せに、慎重に旦那の方へ近づく。

「うおお、すごい!!えっこれ作ったの!?お店じゃないの!?」
想像通り、想像以上の喜び方をする旦那を見て、私も鼻高々である。
 旦那は「写真を撮る!」といって、テンションとは正反対の慎重さで私からパイをそっと受け取り、ダイニングテーブルで撮影会を始めた。

 ひとしきりふたりで綺麗にできた!美味しそう!とはしゃいでから、冷蔵庫に場所を開けてケーキをしまった。バノフィーパイは、冷やして食べるものだと思っている。
 そのあとすぐに夕食を食べはじめたが、「早くパイ食べたいね、楽しみだね」と食卓の話題がパイにかっさらわれたのは言うまでもないだろう。
 作った側の私でさえ嬉しくて、冷蔵庫に飲み物を取りに行くたびに「ねえ!うちの冷蔵庫、今パイがまるまる一個あるよ!」とか散々はしゃいだ。

 そうして待ちに待ったデザートタイム。ティーポットに茶葉とお湯を注いで、パイを6等分にカットする。形がなるべく綺麗なピースを旦那の皿にそっと置いて、紅茶と一緒にサーブした。やっぱりパイには紅茶が一番である。

断面もすんごいバナナ

「食べて食べて」

 早く食べたくてそわそわしている旦那と、早く感想を聞きたくてそわそわしている私。結果、自分の分のパイを取り分けながら、席についている旦那に先に食べるよう促した。

「う、うんまー!!!!」
 一口食べた旦那から歓声があがった。こんなパイ、おうちで食べれちゃって良いんですか!?とか言いながら大事そうに少しずつ食べる。
 その様子を見ながら、私もどんなものかと一口。

「う、うんまー!!!!」
 大成功である。トフィーのこっくりとした甘さと、いいお値段のミルキーなバナナの甘み。そのとろとろとした味を包み込む、さっくりとしたバターパイ。これはカロリーがやばそうと思いつつ、いくつでも食べれてしまいそうな背徳のパイケーキを生み出してしまった。

 少しずつ食べていると思っていた旦那は、結局辛抱ならなくなったようでパクパクと食べ進めてしまい、私が自分のパイを半分ほどかじったところでもう皿を空にしていた。
「どうする…冷蔵庫には今、まだ4ピースもパイがあるぞ…」と誘惑すれば、「おかわりします!」と2ピース目に突入。結局全体の3分の1を一晩でぺろりと平らげたのだった。

 その翌日も外出予定があったわたしたちは、人ごみやらジメジメとした夏の暑さでうんざりするような瞬間もあった。しかし、そんなときに呟くのである。
「うちの冷蔵庫に、まだパイが半分もあるよ…!」

 まるで約束された勝利である。家に帰れば、バノフィーパイがある。冷蔵庫の中を想像して「へへへえ」とふたりで笑顔になる。
 家に手作りのケーキがあるというのは、それだけで幸せな気分になる。

 結局、旦那の誕生日を祝うためのバノフィーパイは、わたしたちの日々の幸せを祝うバノフィーパイになった。
 そしてその日の夜も旦那はあっさり2ピースを平らげ、パイがわたしたちの冷蔵庫に滞在した期間はたったの2晩だけだった。

 それでも、冷蔵庫にケーキがあるというたったそれだけのことで、言い表せないほどに浮足立った2晩を過ごした。
 きっとこの先何年たとうとも、わが家の冷蔵庫には2晩の幸せな魔法かかるだろう。そしてそのたびに、旦那が隣で手作りケーキを口いっぱいに頬張っていてほしい。
 私はその幸せそうな横顔を眺めながら「生まれてきてくれてありがとう」と、口の中でこっそりつぶやくのだ。

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