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イザベラ・バード「朝鮮紀行」 英国婦人の見た李朝末期

英国国教会(聖公会)の牧師の家庭に生まれ育ったイギリス人女性旅行作家イザベラ・バードは、1878年5月、横浜に到着し、東北・北海道と関西・伊勢神宮へ旅をし「日本奥紀行」と第2巻を出版。その後60歳を過ぎてイザベラは1894年冬から1897年にかけて朝鮮を4回訪れ「朝鮮紀行」を書いています。ちょうど、日清戦争(1894〜95)と重なりました。

イザベラ・バードの「日本奥紀行」と「第2巻」は、19世紀後半のヴィクトリア朝の知識層のキリスト教至上主義や西欧列強の白人目線(非白人社会=遅れた文明・西洋近代化=進んだ文明)という当時の白人が持つ概念が、現地を旅し、直接人々と接してその考えが変わっていく様子も描かれ、興味深く読むことができます。

今回は日清戦争を挟んだ緊張状態の「朝鮮紀行」を読んでいきたいと思います。

朝鮮の第一印象 釜山

「長崎港から朝鮮南部の釜山までは、船で15時間しかかからない。とはいっても日本は見納めで、紅葉した楓や蕾のほころんだ梅、頂きに寺のある山、森の神社へと通じる石段、青緑に苔むした松の木、竹林といった風景を眺めた後だけに、釜山の茶色い地肌を露出した山々は荒涼として近寄りがたい印象がことさらあった。」

釜山の市街地に足を踏み入れたイザベラの目的は、3人のキリスト教伝道師(オーストラリア人女性)に会うことでした。彼女達は狭くて汚い路地の長屋に住んでいました。

「土壁には紙を貼り室内は垢抜けて見える。天井は低く3人は常に身を屈めていなければならない。朝から晩まで朝鮮の子供や女性達がひっきりなしに入ってくる。プライバシーは皆無で着替えすら好奇の目にさらされる・・」
「1年後会った時、3人は元気で幸せそうだった。彼女達の「伝道の仕事」は成果をあげ、およそ40名がキリスト教に入信し礼拝を受けていた。・・東学党の乱も日清戦争による動揺も3人には外界の出来事だった・・日本軍の多くが近くに野営して、この長屋の井戸を使っていたが、兵隊の態度は常に丁重だった。」

首都の第一印象

「首都ソウルを描写するのは勘弁していただきたい。北京をみるまで私はソウルこそこの世で一番不潔な街だと思っていたし、紹興シャオシンへ行くまではソウルの悪臭こそこの世で1番ひどい臭いだと考えていた。・・推定25万人の住民は迷路のような横丁の「地べた(1階建)で暮らしている。路地は牛と人間がかろうじてすれ違える幅しかなく、その幅は家々から出た固体、液体の汚物を受ける穴か溝で狭められ、悪臭ふんぷんのその穴に、半裸の子供ら、疥癬持ちでかすみ眼の大きな犬が、汚物の中で転げ回っている」

「朝鮮の災いのもとの一つに、両班ヤンバン、貴族という特権階級の存在がある」
「階級による特権、貴族と官僚による搾取、司法の完全なる不在、労働と少しも比例しない収入の不安定さ、王宮と小さな後宮に蟄居したせいで衰弱した君主、最も腐敗した帝国(清)との綿密な同盟関係、国中に蔓延る迷信(シャーマニズム)、資源など何もないかの如く汚らしい状態にまで落ちぶれさせた国家。朝鮮語の「仕事」という言葉は「損失」「悪魔」「不運」と同義だといい、怠惰な生活を送れるのは貴族の一員たる証なのである」

イザベラは、朝鮮社会を衰退させている要因として、「腐敗した統治機構」と「両班階級」を指摘し痛烈な批判をしています。

1895年「閔妃暗殺事件(乙未事変)」
清が日本に敗北すると、朝鮮の伝統的な外交政策「事大主義」は清朝からロシアへと移行していきました。特に閔妃一族は親露派として勢力を持つようになります。

朝鮮国内の大院君ら反閔妃派と親日派、さらに日本公使館員、陸軍守備隊、警察などが王宮(景福宮)へ強行突入、奥の寝殿に居た閔妃を暗殺、宮廷の庭で石油をかけ遺体を焼却し埋没。
日本政府(伊藤博文内閣)は、三浦梧楼公使らを解任、帰国させ裁判にかけました。裁判では「殺害の直接の証拠がない」として全員が無罪・釈放となりました。

イザベラはソウル近くにその時居り、事件後高宗に何度か謁見し同情を寄せています。

「日本は朝鮮をロシアから守る防波堤(独立国)にしようとしたが、自ら起こしたこの最悪の事件によって、恐怖に駆られた高宗をロシア公館へ追いやる(露館播遷)という、正反対の最悪の結果となった」

ロシアは朝鮮北部の鴨緑江アムノッカン沿岸の森林伐採権や龍岩浦ヨンアムポを占領し、軍事拠点を広げ朝鮮への影響力を徐々に広げていきました。

イザベラは最後の章でこう書いています。
「朝鮮は長く続いた中国との緊密な政治的関係を断ち、日本から独立というプレゼントをもらったが、その使い方を知らずにいる。
イギリスは朝鮮情勢には積極的に関わらなくなっている。他の列強はこの地域の保護に何ら関心を示していない。
朝鮮の運命をめぐってロシアと日本が対峙したままの状態で本稿を閉じるのは実に残念な思いである。私が朝鮮に対して最初に抱いた嫌悪の気持ちは、ほとんど愛情に近い関心へと変わってしまった・・・」
英国に帰国したイザベラバードは1904年に勃発した日露戦争の結末を見ることなく、同年10月に故郷エディンバラで亡くなりました。

お読みいただき有難うございます。 次回もよろしく