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壊れそうになった関係の中で、それでも残ったもの

終わるかもしれない、と思った。
というより、終わらせてしまうところだったのかもしれない。

苦しかったし、寂しかったし、
このまま続けてもまた傷つくだけなのではないか、という気持ちもあった。
相手の言葉や距離の取り方に揺さぶられて、
もうこれ以上は無理かもしれない、と感じる瞬間もあった。

それでも私は、最後のところで踏みとどまった。
あとから振り返ってみると、
それは相手にしがみつきたかったからではなかった気がする。

いちばん大きかったのは、
自分の言葉を裏切りたくなかったこと。

私は過去に、
彼をひとりにはしない、ということを伝えてきた。
どんな揺れがあっても、
簡単に離れることはしたくないと思っていた。

もちろん、それは何をされても耐えるという意味ではない。
自分を犠牲にしてまで関係を守る、ということでもない。
でも少なくとも私は、
彼からの愛情を受けて自分の中に生まれたその言葉を、
感情の波だけで簡単になかったことにはしたくなかった。

苦しいから終わる。
傷ついたから離れる。
それもひとつの選択だと思う。
間違いではない。

でもあのときの私には、
その選択をしたあとに残るものが見えていた。
それは「守れた自分」ではなく、
自分で口にした言葉を、自分で壊してしまった感覚だ。

私はたぶん、彼との関係だけではなく、
自分がどんな人でいたいかを守りたかったのだと思う。

だから、感情のままに切るのではなく、
自分の軸として想いを言葉にした。

それは、相手を追い詰めるための言葉ではなかった。
答えを迫るためでも、
関係を保証してほしいと迫るためでもなかった。

私はこう思っている、
私はこうありたい、
ということを、自分の立つ場所として伝えた。

いま思うと、その形だったからこそ、
回避しやすい彼にも届きやすかったのかもしれない。

回避の傾向がある人は、
問い詰められたり、結論を迫られたり、
強い感情をそのまま向けられたりすると、
ますます閉じてしまうことがある。

本当は気持ちがあっても、
それを受けとめる前に苦しくなって、
逃げるように距離を取ってしまう。

だからあのとき、
私が「あなたはどうなの」と迫るのではなく、
「私はこう思う」と自分の軸として差し出したことは、
彼にとって受け取りやすい形だった可能性がある。

それに加えて、私は返事は不要だと伝えた。
それは諦めではなく、配慮でもあった。

回避しやすい人にとって、
返さなければならない、何かを示さなければならない、
という圧そのものが、
すでに苦しさになることがあるのだと思うから。

だから私は、
こちらの想いを一度きちんと渡して、
それが届けられたらそれでいいと思っていた。

でも、そのあと彼なりの返答が来た。
まっすぐ同じ形で返ってきたわけではなかった。
彼らしいずらし方でもあったし、
わかりやすい言葉でもなかった。

それでも私は、
これは彼なりの精一杯の返答だったのだろうと思っている。

真正面からではなくても、
少し形を変えてでも、
それでも何か返そうとしてくれた。
完全に閉じるのではなく、
細いままでも繋がりはなんとか残そうとしていた。

それを、私はちゃんと受け取れたのだと思う。

ここはとても大きかった。

以前の私なら、
望んだ形ではないことに傷ついていたかもしれない。
わかりやすい言葉や行動がなぜ彼から出てこないのか、
同じ熱量同じ温度で接してくれないのはなぜなのか、
そういう不足の方ばかり見ていたかもしれない。

でも今回は少し違った。

回避しながらも、
それでも切らない。
逃げたくなりながらも、
完全には離れない。

その不器用さの中にある意思を、
私は前よりも受け取れるようになっていた。

細いけれど、繋がりを保ちたい。
深くは降りられなくても、
ゼロにはしたくない。
たぶん彼の中には、そういう気持ちがあったのだと思う。

それは、わかりやすく強い表現ではない。
けれど、回避の人にとっては、
その「細くでも繋がろうとすること」自体が、
もう精一杯の愛の表現のひとつなのだろうと思う。

私は今回、
関係が壊れそうになったところで、
ただ不安に飲まれたのではなく、
自分の言葉を守った。

そして同時に、
相手の不器用な返し方の中にあるものも、
受け取ろうとした。

その両方があったからこそ、
壊れそうだった関係の中にも、
まだ残っているものが見えたのだと思う。

それは、以前のようなわかりやすい熱ではないのかもしれない。
強く抱きしめるような確認でもないのかもしれない。

でも、壊れなかったこと。
切らなかったこと。
そして細い糸を、両方がまだ手放していなかったこと。

そこにはたしかに、
残っていたものがあった。

哲学者プラトンは、
愛をただ感情の高まりとしてではなく、
人をよりよいものへと向かわせる力として見ていた。
目の前の欲望や不安に飲まれるのではなく、
その奥にある本当に大切なものへと向かおうとする運動。
愛には、そういう面があるのだと思う。

もしそうなら、
あの夜に私が守ろうとしたのは、
彼との関係そのものだけではなかったのかもしれない。

自分がどんな言葉を持ち、
どんな人でありたいのか。
そして相手の不器用さの奥にあるものまで、
簡単に切り捨てないで見ようとすること。

それはきっと、
愛によって少し高いところへ引き上げられる、
そういう瞬間でもあった。

壊れそうになった関係の中で、
それでも残ったもの。

それは、
相手のわかりやすい言葉ではなく、
自分の中にあった覚悟と、
細いくても切れなかった意思だったのだと思う。


Aru.



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