ほんの一瞬でも、たった一人でも
娘が、この前私が書いた「走れメロス」の記事を、
大好きな国語の先生に読んでもらいたいと言っていた。
その言葉を受けて、私はそれがただの「読んでほしい」ではない気がした。
きっと娘は、あの記事に込めたものを、先生に知ってほしかったのではないかと思う。
娘は不登校を経験した。
そしてこの春の新学期から、少しずつ学校への復帰を目指している。
まだ途中だし、簡単にここまで来たわけでもない。
苦しかった時間も、言葉にならなかった思いも、たくさんあったと思う。
だからこそ私は、そんな娘が今、ここまで自分の心を整理して、
言葉にできるようになっていることに驚いている。
『走れメロス』について書いた記事を先生に読んでほしいと言ったとき、
娘はこんなことを話していた。
「生き抜くためにはそれしかなかった」
「ほんの一瞬でもいいから、たった一人でもいいから、
その苦しさに共感してくれる人、
一緒に抱えてくれる人がいたら、
それだけで救われる。
自分の力で前に踏み出せる」
私はその言葉を聞いて、胸がぎゅっとなった。
それは、誰かの過ちを正当化したいという話ではないのだと思う。
悪いことをしたなら、悪いことをしたという事実は消えない。
償わなければならないこともある。
でもその前に、
なぜそこまで追い詰められたのか、
どんな苦しさを抱えていたのか、
そこにほんの少しでも目を向けてくれる人がいたなら、
人は違う未来を選べるかもしれない。
ほんの一瞬でもいい。
たった一人でもいい。
「そんなにつらかったんだね」と、
痛みをわかろうとしてくれる人がいたら、
人は少し救われるのかもしれない。
何かが劇的に変わるわけではない。
過去が消えるわけでもない。
苦しみが全部なくなるわけでもない。
それでも、その一瞬の共感が、
「それでも生きてみようかな」
と思える小さな光になることがある。
娘が先生にこの記事を読んでほしいと思ったのは、
ただ感想を伝えたいから、だけではないのだと思う。
『走れメロス』を通して見つけた
自分の願いのようなもの、
希望のようなものを、
先生に受け取ってほしかったのではないか。
ほんの一瞬でも、
たった一人でもいいから、
苦しさをわかろうとしてくれる人がいたら
救われる。
その言葉は、
物語の登場人物に向けたものでもあり、
同時に、
娘自身の心から出てきた言葉でもあったのだと思う。
不登校を経験し、この春からの復帰を目指している今、
娘がここまで自分の心を見つめて、言葉にできていること。
それ自体がもう、ひとつの大きな前進なのだと思う。
人は、正しさだけでは救われないことがある。
共感とは、間違いを肯定することではない。
孤独を少しだけ分け持つことなのだと思う。
そしてその”少し”があるからこそ、
人はまた自分の力で前へ進めるのかもしれない。
この春、娘もまた、そうやって少しずつ前に進もうとしている。
私はそのことを、とても尊いことだと思っている。
Aru.
