「愛」は、許すことではなく、見ること。そして選ぶこと。
最近、思ったことがある。
私はずっと
「許さなきゃいけない」
そう思っていたんだと思う。
嫌な過去も、
モヤモヤする今も、
目の前の相手のことも。
私がやればいい、
私が変わればいい、
私が受け入れればいい、
私が我慢すればいい。
それが
「許すこと」で
それが
「愛なんだ」と
思っていたんだと思う。
「許すこと」への違和感
最近感じた違和感。
感じた、というより、
ずっと感じていた違和感を
やっと”認識した”そんな感覚。
「許す」という言葉には
”評価”や”上下関係”が感じられる。
それが私の心が納得しない理由。
「許す=私は正しい、相手は間違い」
一見、優しさのように見えるこれは、
無意識に相手を「裁いている」ことに
ならないのだろうか。
対等ではない、と思ったんだと思う。
「見る」という選択
ここで転換点が訪れる。
自己統合に近い場所に来て、
気づいたら増えていた「新たな視点」
それが
「構造として見る」こと。
「見る」とはなにか。
ありのままの相手をそのまま見る
ありのままの自分をそのまま見る
長所、短所、好きなところ、嫌いなところ、すべてを見る
評価は一切しない。
善悪も、正誤も、なにも決めない。
ただ、ただ、見る。
「構造で見る」~私の体験談~
ただ見る。
これが意外と難しい。
感情がジャマをするから。
まずは、見る。
そして、感情が動く。
それを、受けとめる。
感情はただの「通知音」
通知は確認したら「止めていい」
そして、
どういう構造でそうなるのか
冷静に見る。
たとえば、
彼は ” 摩擦回避型 ” なので、
仕事で多忙、心に余裕がない、
こういう状況になると
何の連絡もなくある日突然、
内にこもってしまう。
これを「冷たい」「わがまま」と感じ、
その感情にいつまでも振り回される
のではなく、構造を見る。
・彼の回避のパターン
→心に余裕がなくなると距離を置く
→定期的にその波が来る
→余裕ができるとまた戻って来る
これは、私の勝手な推測ではなく、
彼自身にも確認済み。
基本、私には原因はなく、
彼自身が持つ性質で、
本人も自覚している。
「どういう構造でそうなるかを見る」
これができるようになると、
相手を責めたり、疑う必要がなくなる。
そしてもうひとつ。
「構造を見た上で、私はどうするか」
見ることと、受け入れることは
イコールではない。
ここが大切なところだと思う。
・それでも一緒にいたいか
・距離を置くのか
・自分の想いを伝えるか
・このまま置いておくか
選ぶのは自分。
決めるのも自分。
「許す」と「見る」の違い
この出来事から学んだことは、
「許す」だと上下になる、
そして、
「許さないといけない」=義務
のような感覚になり、
どこか苦しくなる、ということ。
「見る」だと
人と人、として、対等に感じられる。
そして、
「見る」=選択
という、主体性が現れる。
結び
愛を「許す」と考えると、
愛は、目を閉じることになる。
愛は、相手を裁くことにもなる。
私にとって、
愛はそういうものではない。
愛は、
相手のすべてを見たうえで、
私はどう在るか、
それを選び続けること。
私もまだ道半ばだけど、
今の私にとって
「愛」というものは、
きっと”対等”なのだと思う。
みなさんにとっての「愛」は
どんな感じですか?
知りたい…^^
Aru.
