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【創作】ムンクの日記映画【幻影堂書店にて】



※これまでの『幻影堂書店にて』


 
 
光一が書店のドアを開けると、ノアが銀色の缶に入ったフィルムをチェックしながら整理していた。
 
「新しく来たもの?」
 
「うん。カストルプさんが送ってくれたものだ。さっきまで見ていたんだけど、なかなか興味深い映画だ。エドゥアルド・ムンクが作成した自主映画だ」
 
「ムンクって、『叫び』の画家かな」
 
「そう、その画家だね」




エドゥアルド・ムンクは1863年ノルウェー生まれ。幼少期に母と姉を結核で亡くし、大きな衝撃を受けた。
 

『煙草を持つ自画像』
オスロ国立美術館蔵


王立絵画学校に入学し、パリへも留学して、印象派やポスト印象派、ナビ派といった最先端の画家たちの作品に強い影響を受ける。
 
帰国して作品を制作すると、ベルリンで個展を開催。激しい批判にさらされるも、表現主義的に濃密に、愛と死を描く作風で地位を確立。『叫び』や『生命のフリーズ』等を次々に手掛ける。


『叫び』
オスロ国立美術館蔵


しかし、家族を次々に亡くし、死や病を想起させる画風で精神的に追い詰められていくと、恋人との別れ話のもつれからピストル誤射により、左手の中指を負傷。酒に溺れることになる。
 
1908年アルコール依存症を克服するため、自ら精神病院に入院。8か月の治療の後は、以前のように退廃的で暗い作風から、明るい澄んだ北欧の自然を描く作風へと転換。ノルウェーを代表する画家として名声は高まった。1944年84歳で死去。




「ムンクは19世紀末の表現主義芸術の早熟児だけど、同時に、20世紀も生きた人だ。この映画は、彼が精神病院を退院した後の1910年に裕福なノルウェーの出資者がお金を出して制作された。その出資者の家に滞在した彼の日常を捉えた50分のフィルムだね」
 
「つまりプライベート・フィルムに近いわけだ」
 
「そうだね。勿論表の世界では流通していない。一緒に観てみようか」


『春』
オスロ国立美術館蔵




映画は、緑豊かな屋敷と庭の場面から始まる。
 
髭を蓄えたムンクと思しき中年男性が出てきて、何か話したりキャンバスの前で筆を動かしたりしている。
 
お屋敷は広大で、部屋の家具も高級そうに光一に思えた。家にはお手伝いさんだけでなく、実業家の2人の娘と2人の息子がいて、長女は美しく背の高い少女だったが、他の3人はまだ小さい子供だった。
 
ムンクは彼らと一緒に、朝食を摂ったり、庭園でボール遊びをしたり、子供たちが自転車に乗るのを手伝ったりと、穏やかに過ごしている。
 
そして、ムンクの過去の絵画を子供たちが再現する場面が続く。ベッドに横になった長女に、顔を伏せて泣く演技をするお手伝いさん。


『病める子』
オスロ国立美術館蔵


あるいは庭園で二人一組で踊る子供たち。『叫び』のように頬を手に当ててポーズをとっては大笑いする子供たち。その横で微笑むムンク。
 
なるほど、ムンクは精神病院を退院して落ち着いたのだろうと光一は少し微笑ましく感じた。
 
場面が変わると、なだらかな丘からカメラがゆっくり右を向く。すると森が広がり、長女の少女が白いワンピースを着て立っていた。遠くには海が見え、少女は画面のこちら側を見て、どこか澄ました表情でしなを作りながら微笑んでいる。画面の端には馬が見えた。
 

『声』
ムンク美術館蔵


その刹那、光一には少女の表情が揺らいだように思えた。
 
何かを見つけて、動揺したかのように彼女の視線が宙に泳ぐ。
 
感情が表れているのに、どこか不自然な瞬間。他の場面では出演者が自然体でカメラの前で振る舞っているだけに、不思議と印象に残った。
 
その後、ムンクが夕食を摂って、自室の部屋に戻るところでフィルムは終わった。




光一は、ノアの眼を見ると、ノアは微笑んで、淹れていた紅茶を差し出した。光一は砂糖を入れて話しかける。
 
「なるほど、本当に日常を捉えた感じだね。絵画を再現するシーンがちょっと面白かった」
 
「あれは「活人画」的な部分だね。絵画の光景を舞台上の人で再現しようとする試みというか催しは、結構古くから伝わっていた。

19世紀以降は、写真の発達もあって、写真で再現する方法も発達した。初期映画も「芸術映画」として絵画の場面を再現しようとする場面を取り入れようとしていたよ。
 

『生命のダンス』
ムンク美術館蔵


ここに出てくる上流階級の子女たちもそのことを知っていただろうから、そのパロディだね。『病める子』『生命のダンス』『叫び』『声』あたりが再現されているね」
 
「そう、この『声』だ。海辺の女の子を捉えた場面。少し、変に思わなかった?」
 
光一の言葉に、ノアは少し寂しさそうな顔をする。その赤い左眼が微かに光ったように感じた。




「そうだね。実はこのフィルムの解説があって、この長女のエヴァという女の子は、望まない結婚を親から押し付けられたけど、恋人だった馬丁と駆け落ちして、最後は二人で自殺している。それで父親もこのフィルムをお蔵入りにしてしまったらしい」
 
光一は飲んでいた紅茶のカップを置いた。
 
「そうだったのか。そんな悲劇があったとは」
 
「あの場面、馬を君も見たよね。

遠くに馬がいて、そして、フィルムが切れる直前、その馬に手綱をかけて戻そうとする男の姿がほんの少し見えた。
 
最初は絵画を再現していたけど、森の丘に馬を連れた馬丁が現れたんじゃないかな。そして、動揺した少女の姿がフィルムに残された。これは仮説だけど」
 
「そう考えるのが自然に思えるね。それにしても、何か見てはいけないものを見てしまったような場面だったね」
 
「そうだね。ムンクは実は写真には結構興味を持っていて、初期の心霊写真を撮っていたりする。独特のうねるような表現、ぼんやりとしてひっかいたような画面や、過去と現在が同居しているような画風は、写真の二重焼きの影響なんかも考えられるね。
 

『少女と死』
ムンク美術館蔵


でも、映像や写真というのは、絵画と違って、「作者」が思ってもみなかった現実を取り込んでしまうことがある。
 
ムンクの絵画の「愛」と「死」の世界は、完璧に彼の中でコントロールされた世界だ。しかし、その絵画を再現しようとしていたら、まさしく彼が描いていたような愛と死と孤独の世界を引き入れてしまったような、そんな感触もあるね」
 
「映像というのは不思議なものだね」
 
「ああ。絵画は草一本でも作者が創造しなきゃいけない。でも、映像はカメラを向ければそこに世界がある。だからこそ、自分と違う何かを取り込んでしまうこともある。
 
ムンクの絵画は退院以降、それまでの絵画のヴァリエーション違いか、穏やかな北欧の自然を描くかのどちらかになっていくけれど、それはある意味、そういう世界とは別の何かなのかもね。どちらかが優れているというわけではなくね」
 
光一はその言葉に頷いて、再び紅茶を啜った。そしてあの少女のような戸惑いの眼差しをどこかで見たことがあるように感じながら、ノアがフィルムを片付ける様を見ていた。


『太陽』
オスロ国立大学講堂蔵








(続)


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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