彼女が毎回終電で帰っていた理由を、僕は最後に知ることになる
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出会いは、ノイズみたいな奇跡だった。
でも、あの一年は、今でも消えていない。
終電の向こう側に行けなかっただけで。
金曜の夜、渋谷の公園通りを少し入った
ちょっとおしゃれな居酒屋、僕は女子の先輩(彼氏いる)
と仕事後、店長の悪口を言いに飲みに来ていた。
途中でトイレに立った。店の奥にあるドアを開け中に入る。
右が男子、左が女子。
鏡の前の手洗い場、そこにひとりの女の子が順番を待っていた。
照明が暗いのに目を引いた。
こんな場所でどうなんだ、と思ったが、
彼女の可愛さに負け、声をかけてみた。
「混んでるね」
「ね。遅いね」
「今日は飲み会?」
「ううん、友達とね」
気づいたら、言っていた。
「可愛いね」
言った後、やばいか?と思ったが、
「え、うそ、でもありがとう。キミもカッコイイよ」
「マジ?」
二人で笑いあった。
「じゃあさ、今度一緒に飲みに行こうよ」
「いいよ~」
女子用ドアが開いた。
「それじゃね~」
「うん、楽しみにしてる」
心の中でもう一度、マジ?と繰り返した。
僕らはトイレの前の3分間で、デートの約束をした。
「どしたの?なんかトイレ行ってニヤニヤして」
「え、何でもないですよ~」
彼女と連絡先の交換はしてない。その笑顔を信じるしかなかった。ただ、その笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ影があった気がした。
最初に待ち合わせたのは、渋谷のモヤイ像の前だった。
どんな子だったっけかな、ほんとに可愛かったかな、
てか、来るのかな~。
と待ってる間の懸念は一瞬で晴れた。
彼女は時間通りに現れた。
チャーミングなオーラをまとった女の子が手を振って歩いてきた。
2回目に会ったとき僕は言った。
「彼氏はいるの?」
「いないよ。でもね・・・」
その瞬間、胸の奥がざらついた。
「好きな人がいるの」
ざらつきはぐらつきに変わった。
「でもね、その人には一度振られたの・・・」
一筋の隙間から希望の光が差した。
「そしたら、僕がその代わりになれないかな?」
「わたし、彼のこと、忘れられなくて・・・それでもいいの?」
僕はためらいを吹き払い、深く頷いた。
そのざらつきやぐらつきを、見ないことにして
生ビールを飲みほした。そのときは、
「やったぜ」という喜びしか見えていなかった。
3回目の帰り道。
スクランブル交差点で、信号待ちをしていた。
人に押されて、距離が近くなる。
僕は一瞬ためらったが覚悟を決めた。それでもいいと思った。
そのまま、一瞬キスをした。3秒。我ながら上手く唇に触れられた。
彼女は驚いて僕の顔を見つめたあと、何も言わずに、
強く手を握ってきた。
恋人繋ぎだ。
それからの時間は、よくできた日常みたいだった。
上野動物園に行った日、空は曇っていた。
人は少なくて、動物たちはどこか退屈そうだった。
「キリンって大きいよね~」
と彼女は、よく笑っていた。そして
「キミといると、あの人のこと考えなくて済むから楽しい」
と彼女は呟いた。
スキーにも行った。
兄貴のお下がりのボロボロのシビックで山まで走った。
チェーンをつける間、彼女は車から出てずっと隣にいてくれた。
何も言わずに、ただ見ていた。
その距離が、心地よかった。
雪の中の彼女の笑顔は、やけに明るかった。
彼女は歯科衛生士で、僕は楽器店でバイトをしていて、将来はミュージシャンになるつもりだった。
たぶん、その時点で、少しずれていた。
彼女の指先はいつも消毒の匂いがして、僕の手はいつも弦の金属の匂いがした。
でも、そのことをちゃんと話したことはなかった。
聞けなかったことが、いくつかあった。
ひとつだけ、ルールがあった。
どんな日でも、彼女は終電で帰る。
彼女は西武池袋線の駅に住んでいたので、
渋谷駅での終電が東横線の僕より早い。
だからいつも僕が見送る側になった。
ホームの白い蛍光灯の下、僕はいつもホームで泊まれないか、とごねた。
でも彼女の態度は頑なだった。
ドアが閉まる瞬間、風が頬に当たる。
車内の光に照らされた、申し訳なさそうな彼女の顔が見える。
電車が去ったあと、急に静かになる。
その静けさだけが、残った。
一年近くたったある日。
その日彼女との会話は不自然に途切れることがあり、笑顔もどこか違和感を感じていた。それでも彼女は言った。
「今日は泊まれるよ」
純粋に嬉しかった。手放しで喜んだ。
やっと心を開いてくれたんだと思った。でも同時に、どこかでなにかの細い影がふっと揺れたような気がした。
どうして今なんだろうって。
もっと早くじゃなくて、どうして今日なんだろう。
「散らかってるけど、どうぞ。
この前カーテンをブラインドに変えたんだ。どう?」
「綺麗にしてるじゃない。見直した」
「ここ座って」
僕はこんな日の為に用意していた、
大きなクッションを勧めた。
「何飲む?ビール?ハイボール?チュウハイ?
ライムスライスもあるよ?」
「ありがとう。でも、その前に話があるの」
間接照明の光が一瞬ゆらいだように見えた。
彼女は肩を震えさせながら、意を決したようにつぶやいた。
「連絡があったの……また戻れそうなの。」
少し黙ってから、彼女は笑おうとしていた。
でも無理だった。その代わりに涙が一粒、膝の上に落ちた。
「泊まったら、戻れなくなる気がして・・・
ごめんなさい・・・」
僕はキッチンでグラスを持ったまま立ち尽くした。
その時、全部つながった気がした。
順番が来ただけだった。
最初から分かっていたはずなのに、すっかり忘れていた。
彼女の終電に対する規律は、いつか帰る場所があることを、自分に言い聞かせるための儀式だったのか。
このままその規律内で続くと思っていた。
その夜、何を話したのか覚えていない。
そして静かにシングルベッドで寄り添い、
手を繋いて眠りについた。
次の日の朝、先に起きた僕は彼女の寝顔を眺めた。
こんなにも愛しい彼女の寝顔を見たことは無かった。
僕は1年それを待っていたのだ。
でも、そこには違う世界へ行ってしまった、眠り姫が横になっているだけだった。涙がこぼれそうになった。
どうしたらいいのかわからなくなってシャワーを浴びた。
そして泣いた。
映画を見て泣く以外、初めてだった。
なぜこんなに涙が出てくるのか、はっきりとは分からなかった。
ただ、いくつかそれらしき寂しさの衝撃が心に叩きつけられた。
彼女の笑顔。
手の温度。
終電のドア。
すべてが海辺の砂の城のように崩れ去った。
最後の日は日曜だったので一緒に過ごそうと決めた。
いつもデートしていた渋谷の街を歩いた。
ロフト、パルコ、スペイン坂のカフェ。
山手線に乗ってもう一度上野動物園にも行った。
相変わらず曇りで、動物たちは暇そうだった。
会話は少なかったが彼女は笑った。寂しそうに。
夜、最初に出会ったあの店に入った。
ここで終わろうと、最初から決めていた。
彼女がトイレに席を立った。
僕は会計を済ませて、店を出る階段を駆け上った。
手を繋いで歩いているカップル達の横を乱暴に通り過ぎる。
涙は出てこなかった。
渋谷の喧騒が他人事のように鳴り響いていた。
駅に向かって歩いていると、後ろからハイヒールで
駆けてくる足音がした。
振り返る前に分かった。
彼女が走ってきた。息を切らして、白い息を吐きながら。僕の袖を掴むと、泣きながら叫んだ。
「ずるいじゃない!」
僕は立ち止まった。彼女は僕の袖を掴んだまま、下を向いて泣きじゃくった。
「ひどいよ、ひどいよ……」
僕は「ごめん」とだけ呟いた。
ゆっくり振り返り、彼女に向き合う。手を伸ばすと、その手は震えていた。僕は静かに彼女を抱きしめた。
公園通りの人々が一瞬こちらを振り返る。それでも、僕らの間には何も入ってこなかった。
車の音が遠くでぼやける。彼女の涙は僕の胸の中でも止まらなかった。だが言葉は出てこない。
そして手を繋いだまま、二人は黙って渋谷駅へ歩いた。
彼女の家へ向かう電車のホーム、繋いでいた手をドアが遮った。
彼女は涙を拭きながらうつむき、僕を見ていた。
静かに走り出した窓ガラス越しの彼女の姿は、
少し、電車の中で僕を追って歩いたように見えた。
でも、すぐに見えなくなった。
終わりは、いつもこんなふうにすぐ終わる。
それでも、彼女の涙の跡だけは、僕の胸に残っていた。
そのあと、ひとりでホームに立っていた。
行き交う人々の声が、遠くの波音のように聞こえた。
彼女が乗った電車を、ぼんやり思い出していた。
光、ドア、うつむいた彼女の顔。
全部、同じなのに、もういない。
1年が30秒で消えた。
連絡は来なかった。
僕は迷ったがラインから消した。
日常は、そのまま続いた。
ただ、時々思い出す。
ホームの光と、あの一瞬の風、そしてチャーミングな笑顔。
終電の向こう側に行けなかっただけで、
あの時間は、確かにあった。
今でも、少しだけ優しく残っている。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
