【公共講義録】経済編#16 日本経済の歩み①:高度経済成長から石油危機、そして安定成長へ
みなさん、こんにちは。
今日のテーマは「日本経済の歩みと近年の課題」という大きな単元の中から、昭和の激動期である高度経済成長と石油危機(オイルショック)、そしてその後の安定成長までを一気に駆け抜けます。
「昔の歴史の話でしょ?」って思わないでくださいね。皆さんが今使っているスマホ、乗っている電車、あるいは将来就職する会社の働き方……その土台はすべて、この時代に作られたんです。共通テストでも「超重要ゾーン」ですから、背景からしっかり紐解いていきましょう!
1. なぜ戦後日本は「奇跡」と呼ばれる復興を遂げられたのか?
時は1956(昭和31)年。
この年の『経済白書』に、歴史に残る有名なフレーズが登場しました。
「もはや戦後ではない」
敗滅的なダメージを受けた太平洋戦争の終わりから、わずか10年ちょっと。日本は戦前の経済水準をすっかり取り戻してしまったんです。
そして1955年頃から1973年頃まで、日本は約20年間にわたり、年平均で約10%という凄まじいペースで経済を大きくしていきました。これが高度経済成長です。
【高度経済成長の主な景気波(テストに出る名称!)】
神武景気(1955〜57) → 岩戸景気(1958〜61) → 伊ザナギ景気(1965〜70)
※日本の神様や神話から名前が取られているのが特徴です!
では、ここで最初の「問い」です。
なぜ、資源も土地もない日本が、これほどの急成長を達成できたのでしょうか?
理由は1つではありません。いくつかの要因が奇跡的に噛み合ったからなんです。
豊富な質の高い労働力: 地方の農村から、若く真面目な労働者が都市部の工場へ大移動しました(いわゆる「金の卵」たちです)。
高い貯蓄率: 日本人は真面目に銀行へお金を預けました。銀行はそのお金を企業に貸し出し、企業は最新の工場を作るための設備投資を行いました(「投資が投資を呼ぶ」と言われました)。
安くて潤沢な石油資源: 当時は中東から安く大量に石油が輸入できたため、エネルギーの主役が石炭から石油へと一気にシフトしました(エネルギー革命)。
技術革新と貪欲な導入: 欧米の先進技術をどんどん吸収して、より良い製品を作りました。
さらに、当時の池田勇人内閣が打ち出した国民所得倍増計画(1960年)が国民のやる気に火をつけました。「10年でみんなの給料を2倍にします!」と宣言し、なんとわずか数年で本当に達成してしまったんです。
2. 暮らしの変化と「国際社会への復帰」
経済が大きくなると、皆さんの家の中にある「モノ」が劇的に変わります。
1950年代後半には「三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)」が普及し、1960年代後半には「3C(カラーテレビ・カー[乗用車]・クーラー)」が憧れの的となりました。
教科書のグラフを見てください。1960年代から70年代にかけて、テレビや洗濯機、冷蔵庫の普及率が垂直に近い角度で一気に100%近くまで跳ね上がっているのがわかりますよね。家事の負担が減り、人々の生活スタイルが根本からガラリと変わった瞬間です。
「世界の日本」へ!開放経済体制への移行
国内が豊かになると、日本は世界の仲間入りを果たします。共通テストで絶対に落とせない「国際機関への加盟と昇格」の流れを整理しておきましょう。
GATT11条国(1963年):国際収支(国の家計簿)の赤字を理由に輸入制限ができない国になりました。
IMF8条国(1964年):同じく赤字を理由に、為替取引(外国とお金のやり取り)の制限ができない国になりました。
OECD(経済協力開発機構)加盟(1964年):「先進国クラブ」と呼ばれるOECDに加盟。
資本の自由化(1967年〜):外国の投資家が日本の企業に自由にお金を出資(投資)できるようになりました。
貿易やお金の動きを自由にする開放経済体制へと、日本は一気に舵を切ったわけです。
同時に、日本の産業構造もガラリと形を変えていきました。
教科書のグラフが示す通り、かつて半分以上を占めていた農業などの第1次産業の割合がどんどん下がり、重化学工業などの第2次産業や、サービス業などの第3次産業の割合が一気に増えていきました。これを産業構造の高度化(ペティ・クラークの法則)と呼びます。
3. 突然の終わり〜ニクソン・ショックと石油危機〜
絶好調だった日本経済ですが、1970年代に入ると「二つの大きなショック」に見舞われます。
ここで2つ目の問いです。
イケイケだった日本の高度経済成長は、なぜ突然終わりを迎えたのでしょうか?
① 第1のショック:ニクソン・ショック(1971年)
当時、世界のお金のルールは「1ドル=360円」で固定されていました。しかし、アメリカの経済が苦しくなり、ときのニクソン大統領が金・ドル交換の停止を突然発表したのです。
これによって1ドル=360円から308円へ切り上げられ(スミソニアン協定)、最終的には為替相場が自由に変動する変動為替相場制(1973年〜)へと移行しました。円高になると日本の輸出製品が高くなるため、大打撃を受けたんです。
② 第2のショック:第一次石油危機(1973年)
さらに追い打ちをかけたのが、第四次中東戦争をきっかけに起きた第一次石油危機(オイルショック)です。原油の価格がなんと約4倍に跳ね上がりました!
「石油がなくなる!トイレットペーパーがなくなる!」とパニックになり、街中のスーパーから紙類が消えるという事態まで起きました(今思えばデマに近い買い占めだったのですが、当時の恐怖感は凄まじかったのです)。
原油高によって、物価が激しく上昇(インフレ)しているのに、不景気で給料が上がらないという最悪の現象――スタグフレーションが発生しました。
こうして1974年、日本は戦後初のマイナス成長を記録し、約20年続いた高度経済成長は終わりを告げたのです。
4. 乗り越えた先の「安定成長」と日米の摩擦
しかし、ここからが日本企業のすごいところです。
1979年に第二次石油危機が起きますが、日本は第1次の反省を生かし、冷静に対応しました。企業は「無駄なコストを徹底的に削る」減量経営を行い、エネルギーを使わない省エネ技術を磨き上げたのです。
そして、重くでかい鉄鋼や造船などの「重厚長大型産業」から、半導体や自動車などの軽くてハイテクな軽薄短小型産業へとシフトしていきました。
こうして日本は、年4〜5%ほどの穏やかだけれど引き締まった成長=安定成長の時代へと入っていきます。
豊かになったからこその悩み:日米経済摩擦
日本製の省エネで壊れにくい自動車や家電製品がアメリカで爆売れした結果、アメリカの産業が圧迫され、二国間で激しいモメ事が発生します。これが日米の経済摩擦です。
最初は繊維や鉄鋼だった揉め事が、自動車や半導体へと広がり、1990年代には日米包括経済協議などが開かれ、アメリカから「日本の市場を閉鎖的だ!もっとオープンにしろ!」と強い圧力を受けることになりました。
(※このアメリカからの強烈な圧力が、次回学ぶ「プラザ合意」を引き起こし、やがて日本を空前の「バブル経済」とその崩壊へと導いていくことになります……!)
本日のまとめとポイント
今日の授業となる用語です。教科書を見ずに説明できるか確認してみましょう!
高度経済成長: 1955〜73年頃の年約10%の急速な経済拡大。
国民所得倍増計画: 池田勇人内閣が掲げた、10年で所得を2倍にする計画。
GATT11条国 / IMF8条国 / OECD: 開放経済体制へ移行するための重要ステップ。
産業構造の高度化: 第1次産業から第2・第3次産業へ中心がシフトすること。
金・ドル交換の停止(ニクソン・ショック): 1ドル=360円の固定相場制崩壊のきっかけ。
第一次石油危機: 原油高騰により、1974年に戦後初のマイナス成長を記録。
スタグフレーション: 不景気(デフレ要因)と物価高(インフレ)が同時に起きる最悪の事態。
軽薄短小型産業: 省エネ・ハイテク化により、自動車や半導体などが中心となった産業。
安定成長: 石油危機を乗り越えた後の、年4〜5%ほどの持続可能な成長。
日米包括経済協議: 日米間の貿易黒字や市場開放を巡って行われた話し合い。
次回:バブル経済と崩壊
次回は、いよいよ昭和から平成へ。日本中がお金持ちになったと錯覚し、そして一気に突き落とされた「バブル経済とその崩壊」を扱います。
なぜ土地や株の値段がありえないほど跳ね上がったのか? そしてなぜ弾けたのか? 今の「失われた30年」と呼ばれる日本の停滞にもつながる重要回です。お疲れ様でした。
いいなと思ったら応援しよう!
この記事は noteマネー にピックアップされました

