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ポケットにGM1S〜「まなざしの奇跡」へ

昼下がりに突然ザーッと雨が降り、そしてまた太陽が輝いて、とても夏らしい青空が広がりました。ちょうどランチを食べに出る時間帯で、LUMIX のGM1Sという世界最軽量MFTカメラ(12年前に発売)をお供に出かけました。

こちらレンズはパナライカの15mm F1.7というコンパクトなものです。これはもう、傑作の組み合わせですよね。

ちっさ〜い

先日、渋谷でランチ会があったので、身軽に出かけたくてGM1Sを持っていきました。
15mm(35mm判換算で30mm)は私には十分広角。あまり得意な画角ではないのだけど、巨大な街をザクッと切り取ったりするのには、とても楽しい。

広角の楽しさ。
真夏の渋谷

今年のお盆シーズンは、仕事に追われまくっていない。何年振りだろう。超絶久々の「夏休み」感を満喫。
ちょうどヒカリエホールで「まなざしの奇跡〜日本女性写真家の冒険」の展覧会をやっていたので、観てきました。時間に追われずに展覧会で過ごせるって、なんて贅沢なことかしら。
そもそも「まなざし」という言葉そのものだって、「時間」の感覚を超越するような響きがある。
じっくりと、時を止めたり、なんなら、戻したり、先に進んだり。
日本の女性写真家の人たちが、どんな風に事物や情景に、あるいは自己や他者に眼差しを向けてきたのか、ゆっくり見てきました。

館内は一点撮りは不可だけど、撮影OK。

私は石内都さんの「mother's」が非常に心に残っているのだけれど、今回もまた、女性たちの生きてきた証のような、なぜか艶かしさや、生々しさや、体温を受け取れる作品たちを見て、しみじみと、どこか薄暗い気分になりました。その、薄暗い気分になるのが、いいんです。

蜷川実花さんは、やっぱり極彩色の作品のイメージだったんですが、写真家としてのスタートにモノクロ作品があったそうですね。今回は沖縄の海中やその周りの自然をとらえた写真と映像が圧巻で、何も強くメッセージは発してこない情景なのに、何かを強く警告されているような、鋭くてはかなくて、深く静かな世界に心を動かされた。

一方で私は、わかりやすすぎる強めのメッセージだとか、濃い目の自己表出みたいなものを、写真の世界に持ち込まれますと、ちょっと「うっ…」となる。
もちろん、美しく整えられたものだけが、写真に映る人間の肉体ではないけれども、たとえば女性のデリケートゾーンの毛穴とかは、すごく単純に、あまりそこは見たくないなぁと思っちゃう。
また、あからさまに警鐘鳴らします系は、お説教されているような気分になっちゃう。

現代アートは好きだし、それなりに見てきたし、もともと出自は現代音楽研究なのですが、「写真の一愛好家」である自分はある一面で、「写真」と謳われる世界に対して、どこかとても保守的なのかも知れない。

普段クラシックは聞かないけれど、「オーケストラのコンサート?いくいく!」と、「白鳥の湖」などを想像しながら、友達についてきちゃった人、もし突然ペンデレツキの音楽とか聴かされたら「うっ…」とかなるかもしれないし、それはきっと、こういう気持ちに近いのかな、などと、いく枚かの写真から目を背けつつ想像してみたり。

音楽の隣の芸術ジャンル(美術や建築や写真など)に触れて、自分の領域での考え方・感じ方に対し、あらためて気付かされることがある。

出口のミュージアムショップで、この展覧会のキュレーターの竹内万里子さん(写真評論家・京都芸大教授)のご著書「沈黙とイメージ」を買いました。これまた佇まいが美しい。

分厚いし、重いから、どうしよう…と思ったけれど、パラパラっとめくった最初のほうのページに次の文があって、「あ、これは持って帰ろう」と思ったのでした。

人間のあらゆる営みにおいて、作品を生み出すという行為は、ごくわずかな一部でしかない。にもかかわらず、人はときに他のすべてを犠牲にしてでも、そのために生きようとする。その挙げ句、死へ至ってしまうことすらある。なぜか。それは作品というものが他の活動よりも価値があるからなのではなく、作品においてのみ、人は自分の生を縛りつけ苦しめているものたちから解き放たれるからだ。

竹内万里子『沈黙とイメージ』p.19

ところで、ヒカリエの別のフロアでは、可愛い展覧会もやっておりまして。
「役目を終えた楽器がさまざまな生きものたちによみがえる!」
素敵だ。わかりやすく明るい愛がある。

どんな表現も創作も、きっと、だれかのこと、世界のことを思い、他者に届かせたい思いがあるからこそ、生まれるのだなぁ。

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