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第1話 香月式典のいつもの朝

香月式典には白菊の香りが満ちていた。
まだ開式まで三時間。式場には誰もいない。
空調の低い唸りだけが、天井の向こうを流れている。
祭壇の前で、佐藤源造は脚立の上に立っていた。
その場には、不思議な緊張感があった。
誰かに命じられたわけではない。けれど、近くにいるスタッフは自然と声を潜める。花鋏を置く音ひとつさえ躊躇う。源造が祭壇に向かっている時だけは、式場そのものが息を止めるのだ。
右へ一ミリ。白菊を寄せる。違う。左へ半ミリ。
今度は動かない。源造は腕を組んだ。視線だけで祭壇をなぞる。
上段。中段。下段。
流れるようなライン。乱れはない。
故人を送る最後の道だ。迷いがあってはならない。
 
その時だった。
「源造さん」
静寂に、小石が投げ込まれた。源造は無視した。
「源造さん」
二投目。まだ無視。
「源造さんってば」
三投目。ため息。
ゆっくりと視線を下ろす。香月飄がいた。
ポケットに両手を突っ込み、祭壇を見上げている。まるで美術館に来た客のような顔だった。
「なんだ」
「綺麗ですね」
「当たり前だ」
「でも」飄は首を傾げた。「綺麗すぎる」
源造の眉が動く。「あ?」
「ちょっと窮屈かなって」
「どこがだ」
「全部」言い切った。
源造は脚立を降りる。「説明しろ」
飄は祭壇へ近づいた。白菊の列を見つめる。
「整いすぎてるんですよ」
「整っていて何が悪い」
「人生って整ってないじゃないですか」
飄は一輪の菊を摘み上げる。「寄り道したり」
一本置く。「転んだり」
少し傾ける。「遠回りしたり」
蕾を添える。「だから――」
祭壇を見上げた。
「少しくらい揺らいでた方が、その人らしい」
源造は即座に花を抜き取った。
そして花桶へ放り込む。
「うわ」
「葬儀は芸術展じゃねぇ」
「芸術展じゃないからですよ」
「故人を送る場所だ」
「だから故人らしくしたいんです」
源造は鼻を鳴らした。「お前は昔から余計なことばかり考える」
「褒め言葉ですね」「違う」「同じようなもんです」「違う」「同じです」「違う」「同じ」「違う」「同じ」「違う」「同じ」「干支だけはな」
飄が笑う。
源造のこめかみがぴくりと動く。「十二歳違う」
「でも同じ」「違う」「同じ」「違う」「同じ」「違う」「同じ」
「飄」「はい」「黙れ」「はい」
一秒。
二秒。
三秒。
「でも――」「黙れと言っただろうが!!」
式場に怒声が響いた。
 
その瞬間。
事務所のドアが静かに開いた。二人とも固まる。
ヒールの音。
カツ。
カツ。
カツ。
香月小百合が姿を現した。
柔らかな笑顔。穏やかな目元。それなのに、香月式典で最も逆らってはいけない人間だった。
小百合は祭壇を見る。源造を見る。飄を見る。
そして言った。
「……二人とも」
源造の背筋が伸びる。飄も姿勢を正した。
「いつまでやってんの?」
静かな声だった。だが効果は絶大だった。
「……失礼しました」源造が頭を下げる。
「はーい」飄も返事をする。
小百合は満足そうに微笑んだ。
「仲良くね」
「無理です」「無理ですね」
見事に重なった。小百合は吹き出す。
「息ぴったりじゃない」
そう言い残し、事務所へ戻っていった。
ドアが閉まる。
沈黙。
 
しばらくして。
源造がデスクの上の資料を手に取った。
一枚の写真。一枚の依頼書。
それを飄へ差し出す。だが手は離さない。飄も受け取ろうとして止まる。
二人の視線がぶつかった。
「次の式だ」
源造が言う。「少し厄介らしい」
飄は資料を見る。源造は離さない。まるで挑戦状でも渡すように。
「お前の好きな案件だ」
「へぇ?」
「故人らしさを大事にしたいんだろ」
源造の口元がわずかに歪む。「だったら見せてみろ」
ようやく資料が手放された。「お前の美学を」
飄は少しだけ目を細めた。そして写真へ視線を落とす。
柔らかく笑う老人。依頼書には一行。
【父らしい祭壇にしてください】
飄はページをめくる。
職業欄――会社経営。
趣味欄――空白。
経歴欄――空白。
「……あれ?」
「家族も分からないらしい」源造は腕を組む。「仕事しかしなかったそうだ」
飄は写真を見つめる。
笑顔。穏やかな目元。それだけだ。
なのに。「面白そうですね」
「不謹慎だな」
「違いますよ」
飄は写真から目を離さない。「この人、まだ何も話してないだけです」
指先で写真の端をなぞる。そして小さく笑った。「ほら」
「何だ」
「この人、写真撮られるの苦手だったんじゃないですか」
源造が眉をひそめる。「なぜ分かる」
「笑顔が少し遅れてる」
飄は写真を持ち上げた。「口は笑ってるのに、目だけ構えてる」
さらに指を差す。「それにネクタイ、少し曲がってる」
源造は黙る。
「家族は気づいてないけど」
飄の目が細くなる。まるで絵画の細部を読み解くように。
「たぶんこの人、几帳面な人ですよ」
「ほう?」
白菊の香りが静かに漂う。写真の中の老人は変わらず笑っている。
だがその笑顔の向こうに、まだ誰も知らない人生が隠れている気がした。
飄は写真を胸ポケットへしまう。「行ってきます」
源造が鼻をならす。「さっさっと行ってこい」
職人の目だった。挑戦者を見る目だ。
飄は笑う。「見つけて来ますよ。常識に囚われない抜け道を」

香月式典の新らしい1日が始まった。

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