第5話 リングの外で
「親父は、最低の父親でした」
香月式典の打ち合わせ室の空気が止まった。
香月飄はペンを持ったまま固まる。隣では源造も珍しく言葉を失っていた。
向かいに座る男性は四十五歳くらいだろうか。しっかりとした体格。穏やかな顔つき。
だが悲しそうな顔ではなかった。どこか怒っているような。諦めているような。そんな顔だった。
「最低、ですか」飄が慎重に聞き返す。
男性は笑った。乾いた笑いだった。
「家にいませんでしたから」机の上の写真へ目を落とす。
神崎剛。
元プロレスラー。
七十一歳。
全盛期の写真では、巨大な体でリング中央に立っている。誰が見ても強そうだった。
だが息子は言う。
「運動会も来ない」「誕生日も来ない」「卒業式も来ない」「気づいたらいつも巡業」
淡々としていた。だから余計に重かった。
「でも」息子は少しだけ視線を落とした。「最後くらいは送らなきゃと思って」
飄は頷く。そして依頼書をめくる。
別紙。
そこにはファンクラブ代表からの要望が書かれていた。
――リングを再現した祭壇を希望します。
飄は思わず天井を見た。
「却下だな」式場へ戻るなり源造が言った。
「早いなぁ」
「喪主が嫌がってる」
「まあそうですけど」
源造は腕を組む。「でも、葬儀は遺族のためでもある」
飄が顔を上げた。「珍しいですね」
「何がだ」
「この前と逆のこと言ってる」
源造は黙った。
飄はニヤニヤする。「成長しました?」
「飄」「はい」「黙れ」「はい」
一秒。
二秒。
三秒。
「でも――」「黙れと言っただろうが!」
式場に怒声が響いた。
飄は元レスラー仲間を訪ねた。誰に聞いても同じことを言う。
「神崎さんはすごかった」「最高の先輩だった」「面倒見が良かった」「若手の面倒を見てくれた」「困ったら真っ先に飛んできた」
話を聞けば聞くほど不思議だった。
みんなが神崎剛を好きだった。尊敬していた。
だが。
実の息子だけが違う。
帰り道。
飄は呟く。「なんでだろうなぁ」
翌日。
故人宅。
飄は仏壇の前に手を合わせていた。居間にはアルバムが積まれている。母親が出してくれたものだった。
「好きに見てください」
そう言われた。
運動会――神崎はいない。
卒業式――いない。
入学――いない。
誕生日――いない。
本当にいない。
飄はページをめくる。
またいない。またいない。また――
手が止まった。「ん?」
写真の端。棚の上。机の上。背景のどこか。
毎回同じ封筒が写っている。偶然ではない。
飄はアルバムを持ち上げた。
一枚、二枚、三枚、全部ある。
「これ何だろう」
母親は長い沈黙のあと答えた。「手紙よ」
飄は顔を上げる。「手紙?」
「主人から」声が震えていた。
「巡業先から毎週送ってきてた」
飄は黙る。
「息子さんに?」
母親は小さく頷いた。そして泣きそうな顔で笑った。「渡さなかったけど」
「え?」
「期待させたくなかったの」窓の外を見る。
「今度こそ帰ってくる」「今度こそ来てくれる」「そう思って待つのが辛かったから」
静かな声だった。誰も悪くない。なのに。
少しずつすれ違ってしまった。そんな声だった。
夜。
香月式典。飄は机に古い手紙を並べた。
源造が眉をひそめる。「何だ」
「父親です」
「は?」
「最低の父親じゃなかった」
源造は手紙を読む。
無口な文章だった。不器用だった。だが確かに息子を想っていた。
読めば分かる。
飄は言う。
「リング作りません」
「そうだな」
「でも」
一通の手紙を持ち上げる。
「これだけは見せたい」
源造はしばらく考える。そして。「分かった」短く答えた。
告別式当日。
祭壇にリングはなかった。
代わりに白い花で作られた四本の柱。その間を繋ぐ花のライン。まるでロープだった。
誰が見てもリングを連想する。けれど派手ではない。葬儀らしさは失われていなかった。
中央には遺影。
そして。
その前に一通の手紙。
最後まで渡されなかった手紙だった。
参列者たちが見守る中。喪主の息子が封を開く。
震える指。静かな会場。読み始める。
父の字だった。不器用な字。
飾り気のない言葉。
『運動会は行けない』『すまん』『強い父親でいたいのに』『お前の前では上手く話せない』『本当は会いたい』
一文字ずつ。ゆっくりと。会場へ響いていく。
最後の一行。
『帰ったらキャッチボールしよう』
息子の声が止まった。
その約束は。結局一度も果たされなかった。
会場が静まり返る。
やがて、息子が小さく笑った。涙を流しながら。「最低だよ」
誰に向けた言葉か分からなかった。
「本当に最低だ」少しだけ顔を上げる。
遺影の父を見る。「もっと早く言えよ」
笑いながら泣いていた。「分かるわけないだろ」
式が終わった。
参列者は帰り静寂が戻る。
息子は祭壇の前に立っていた。「親父」
誰もいない会場。
「最低の父親だったよ」少し考える。
そして笑った。「でも」言葉が詰まる。
しばらくして。
ようやく続きが出た。「嫌いじゃなかった」
白菊の香りが静かに流れる。
遺影の神崎剛はリングの上と同じ笑顔で笑っていた。
片付けの最中。
飄が言う。「今回は引き分けですね」
源造は花をまとめながら答える。
「何がだ」
「親父と息子」
源造は少し考える。
そして。「そうかもな」
珍しく否定しなかった。
飄が目を丸くする。
「今」「なんだ」「ちょっといいこと言いました?」
「気のせいだ」「言いましたよね?」「気のせいだ」
そこへ。
事務所のドアが開く。
二人とも反射的に姿勢を正した。
香月小百合だった。
「学習した?」
「してません」飄が即答する。
源造が頭を抱える。
小百合は笑いながら依頼書を置いた。
「次ね」
飄が読む。数秒後。固まった。
「源造さん」
「なんだ」
「故人、小学校の先生です」
「それがどうした」
飄は依頼書を差し出した。
そこにはこう書かれていた。
――教え子が五百人以上参列予定です。
沈黙。
源造が天井を見上げる。飄も見上げる。
そして。
二人同時に言った。「面倒だな」
小百合だけが楽しそうに笑っていた。
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