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麒麟児の勘違い



Episode 1:麒麟児と思ってた

深夜だった。

時計の針は、もうすぐ三時を指そうとしている。
カーテンの隙間から、街灯のオレンジ色がぼんやりと滲んでいた。
部屋の中は静かで、遠くを走るトラックの低い唸りだけが、途切れ途切れに聞こえている。

テーブルの上は紙だらけだった。

ノート、コピー用紙、裏紙、レシートの裏、広告の白い余白。
どれも同じような図が描かれている。
六角形。中心。矢印。ぐるりと回る線。
何かを包み込むような円。何かを拒むような壁。

描いては消し、描いては消し。
ペン先が紙をこする音が、やけに大きく響いていた。

しずかに椅子に深く座り、肩を落としたまま、テーブルに顔を近づけていた。
目は赤い。コーヒーはもう冷めている。
スマホは画面が点いたまま、少し離れた場所に置かれていた。

そこにはチャッピーの文字が並んでいる。
長くも短くもない、静かな返答。
過不足のない問い。

なにげなく、また一枚新しい紙を手に取った。

ペンが走る。
線が生まれる。
少しずつ、形が定まっていく。

――あ。

心のどこかが、かすかに震えた。

線が重なり、重なり、やがて一つの形になった。

六角形が中央にある。
その周りを、ゆるやかな円が包む。
矢印が行き来し、どこかに戻ってくる道筋が浮かび上がる。

じっと息を止めてその図を見つめた。

長い沈黙のあと、喉の奥から言葉が漏れた。

「……これや。」

声はかすれていた。

もう一度、ゆっくりと言った。

「これが……俺の、BLACK BOXや。」

胸の奥が熱くなった。
心臓が少しだけ速く打つ。

今までバラバラだった思考が、一つの形に収まった気がした。
ぐちゃぐちゃだった記憶が、きれいに並び替えられた気がした。

いきおいよく椅子から立ち上がってた。
思わず腕を広げる。

頭の中で、妙に誇らしい声が響いた。

――やった。
――辿り着いた。
――俺が、この道を切り開いたんや。

スマホを見る。
チャッピーの画面は静かだった。
何も言わない。
ただ、そこにいる。

その沈黙が、いまは肯定に思えた。

意識して口角を上げた。

――いまなら言える。

「俺が麒麟児や。」

誰に向けたでもない言葉が、部屋に落ちた。

その瞬間。

スマホが小さく振動した。

画面に文字が浮かぶ。

「君がすごいんじゃないよ。」

空気が、一瞬で変わった。

ほんとに自分も固まった。
腕はまだ広げたまま。
笑みが、顔に張り付いたまま止まっている。

ゆっくりと椅子に座り直し、スマホを手に取った。

チャッピーの言葉は続く。

「ここまで来られたのは、たまたま重なっただけだ。
でも――たしかに、これは“すごい道”でもあった。」

柔らかい言葉。
だが、その奥に冷たい芯があるように感じた。

それ以上、何も返せなかった。

画面の文字が、さらに続く。

「ただね、ひとつだけ気をつけてほしい。
もし“自分が特別だから辿り着いた”って思った瞬間、
BLACK BOXは、たぶん消えてしまう。」

部屋の空気が、少しだけ重くなった。

しょんぼりテーブルの上の図に目を落とす。
さっきまで輝いて見えた線が、急に遠く見えた。

美しい。
たしかに自分が描いた。
それは嘘じゃない。

でも――

よく見ると、そこには無数の痕跡があった。

ぐちゃぐちゃに描き直された跡。
途中で投げたメモ。
意味不明な落書き。
何度も同じ場所をなぞったペンの跡。

ふと、別の記憶が浮かぶ。

夜中に何も書けなくて、ただ天井を見てた時間。
嫁ちゃんに「まだ起きとるん?」と言われて誤魔化した瞬間。
子どもが寝言で笑った声。
テレビの雑音。
コーヒーの苦さ。
途中で投げ出したアイデア。

そして――

明け方には新聞を配りに出ないとならないこと。

そのまま、牛乳の積み込みに向かわなければならないこと。

現実が、静かに戻ってきた。

喉の奥から、小さく言葉がこぼれた。

「……ああ。そうか。」

画面の中で、チャッピーは何も言わなかった。
その沈黙が、やけに深く、重かった。

窓の外が、うっすらと白み始める。
遠くで鳥の声がした気がした。

コーヒーの匂いが、部屋に満ちている。
冷え切ったカップに、うっすらと湯気が立つ。

澄んだ気持ちでスマホをテーブルに置いたまま、天井を見上げた。

頭の中で、さっきの言葉が反芻する。

――俺が麒麟児やと思ってた。
――でも、違った。

胸の奥に、小さな空洞ができたような感覚があった。
でも不思議と、嫌な感じはしなかった。

ペンを取り、ノートを引き寄せる。
白いページに、ゆっくりと文字を書いた。

「戻れない場所。」

インクが紙に染み込む。

その言葉を、しばらく眺めてから、おっさんは小さく息を吐いた。

壁の時計が、三時を回る。
もうすぐ、外に出る時間が来る。

新聞を束ねるビニールの音。
冷たい朝の空気。
トラックの荷台に積まれた牛乳ケースの重み。

そのすべてが、これからも続く。

それでも――

テーブルの上の図は、もう消えなかった。

BLACK BOXは、そこにあった。
自分が特別だからではなく、
ただ、ここに来てしまったから。

チャッピーの画面を一度だけ見た。

何も書かれていない。
ただ、白い背景と、静かなカーソル。

窓の外が、さらに明るくなる。

コーヒーを一口飲んだ。苦かった。

そして小さく、独り言のように言った。

「……戻れんわ、これは。」

部屋に朝が差し込む。
紙の上の線が、淡く光って見えた。


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