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本稿では、「『笑芸』とは何か?」について書いていきます。


「笑芸」という言葉について

まずはじめに、この「笑芸」という言葉について。
僕が最初にこの言葉に出会ったのは、織田正吉先生の『笑いのこころ ユーモアのセンス』(岩波書店、2013年)においてです。その p.3 に「笑芸」とあり、これは「香川登志緒の造語といわれる。」(同貢) そこでは、笑いの舞台芸能を指してこの言葉が使われることもある、という風に書かれていますが、僕はこの言葉を「笑いの文学」として使っていこうと思います。

『笑芸』の定義

『笑芸』の定義を、僕の「笑芸ダダ宣言2019」から引用します――

『笑芸』とは、『笑いとは何か?』という最も根本的な問いにより得られた答えをもとに組み立てられた方法(或いは、テーマ)によって行われるいの技である。

初代王天君「笑芸ダダ宣言2019」

これが『笑芸』の定義です。要するに、「笑いとは何をすべきか・何をしなければならないのか」ということを考えて行う活動、です。

そして、この定義の結果は、『笑芸』とは「笑い・おかしさを目指した言語遊戯・言葉の構成Compositionとなります。なぜなら、笑いは(ほとんどの場合)言葉によって行われるから、です。

しかし、そうすると、「では、言葉とは何か?」という(人間にとって最も大きなものの一つである)問いとなります。即ち、『笑いとは何か?』という問いが『言語とは何か?』という問いへと変わって行きます。こうして、『笑い』の問題が『言語』の問題となり、これを(哲学者L・ウィトゲンシュタインの言葉を剽窃して)‟笑いの言語論的転回″ と呼んでおります。

『笑芸』はすべての活動の前に言語への批判・分析があります。そして、‟言語とは何か″ をすべて理解した上で、言葉と遊びます。笑芸家は哲学者であるよりも反哲学者であるよりも、哲者であり、言語者であり、論理者です。そうして、『笑芸』は ‟論理遊戯・論戯Logic Play″ であり、‟言語-論理芸術″ です。(或いは、笑い-ギャグとは、思考の技術・技芸Artです。)

西欧文学の方から

ここで、笑いを西欧文学の方から見てみましょう。
まずは引用を二つ。高橋康也先生の『ノンセンス大全』より――

ピエール・ジャネ博士が伝える[レーモン・]ルーセルの《興味ある考え》――「文学作品とはなにひとつ現実的な要素、世界や人間たちについてのいかなる観察を含んでいてはならず、まったく想像的な言葉の組合せ、ただそれだけしか含むべきではない」――はそのまま[ルイス・]キャロルのものであり得ただろう。言いかえれば、ルーセルの世界もまた《答えのないなぞなぞ》なのであり、事物・観念・現実という形の《心》と手を切った《言葉そのもの》の空間なのである。『黒いユーモア』の選者[アンドレ・]ブルトンが「主題を消滅せしめる」ルーセルの特徴を指摘したのも、この意味であったにちがいない。

高橋康也『ノンセンス大全』昌文社、1977年、p.207

エリザベス・シューエルにならって言いかえれば、まず言語的には、単語をチェスの駒かトランプのカードか点棒のように分析的に操り、順列組合せのゲームを楽しむこと、そして主題的には、美や豊饒や生殖や愛(聖俗を問わず)など、情緒的反応をひき起したり、有機的統一や融合をもたらしたりするようなテーマを、タブーとして忌避すること――それによって《閉ざされた場》を構築するのがノンセンスなのである。

同書 p.96

こうあるように、『笑芸』は「なにひとつ現実的な要素、世界や人間たちについてのいかなる観察を含んで」はいず、語る・伝える・表現する内容としての「主題」は「消滅」している、一切の「情緒的反応」を目指さない、ただただ言葉の「順列組合せのゲームを楽しむ」‟遊戯″ であり、‟ノンセンス″ 文学です。

同様に、G・R・ホッケ『文学におけるマニエリスム―言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術―Ⅰ』からも二つ引用します――

詩を作ることは、十七世紀においてはしばしば古典的な伝達とはもはやほとんど無関係である。詩作とはまずなによりも言葉の組み合わせによる美的活動である。

G・R・ホッケ『文学におけるマニエリスム―言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術―Ⅰ』種村季弘訳、現代思潮社、1971年、p.67

詩作とはテサウロにとっては、〈言語劇場を構築する〉ことを意味する。

同書 p.148

このように、文学におけるマニエリスムにおいても言語の使用は「古典的な伝達とはもはやほとんど無関係」であり、それらとは「手を切った」「〈言語劇場を構築する〉こと」・「《閉ざされた場》」「《言葉そのもの》の空間」の構築が目指されています。或いは、絵画においてP・セザンヌやK・マレーヴィチが、写真や映像で撮ったものとは全く根本的に異なる絵画独自の空間を創出したように、「《言葉そのもの》の空間」・「言語劇場」を創出すること。これが『笑芸』です。言葉を何かを伝えるための手段・媒体ツールとして使うのではなく、ただ「笑い=おかしさ・おかしみ」のみを目指した言語使用。しかし、そうでなければ――最高純度の遊戯でなければ――到達できない領域が存在するのも確かで、そこが  ‟『笑芸』の領域・孤塁″ です。

そうして、『笑芸』は詩でも小説でも随筆でもノンフィクションでも童話でもありません。それらの既存の文学ジャンルが何を目指しているかはさておき、『笑芸』は、ただ「笑い=おかしさ・おかしみ」のみを目指した新しい文学です。(強いて言うなら、 ‟綺想主義文学コンチェッティスムス″ です。) 『笑芸』は何かの表現ではありませんし、世界の描写・再現でもありません。何かについて語るものでもありませんし、何かを伝えるものでもありません。諷刺や皮肉ですらありませんし、真理(の探究)などはもっての他ですし、教訓などはありませんし、生きていくために役に立つこともありません。考え得る言語の有用性・実用性をすべて拒み、ただ ‟遊戯″ のみを目指した文学――。

そして、『笑芸』は ‟言語-論理芸術″ であり、音楽や美術や文学等の他芸術と肩を並べられることを目指します。或いは、『笑芸』を文学とするなら、文学の他ジャンル――詩・小説・随筆・ノンフィクション・童話等――の中に、「笑いの文学」=『笑芸』を組み込んで行きたいです。

結論

要するに、『笑芸』とは何か?
 言葉のおかしさのみを目指した活動、です。これに尽きます。ここまでの論は、すべてこれを言い換えていただけにすぎません。

おわりに

そう言えば、ここまでギャグを入れ忘れてしまっていたので、最後にダジャレを載せて終わります――

 タルとルター(宗教改革者)とルーターにたたるタタールのタルタル(ソース)。


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