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遠野奇譚 其の壱拾弐~うそのような話

影山 「このタイトルなのですけど、うそのような話で、うそのような本当の話ではないのですね?」
堀切「わざわざ本当と言う事はないのさ。本当をつけちゃうと逆に胡散臭く感じない?」

 「松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて一升樽に入れ土中に埋めたり。その形は極めて醜怪なるものなりき。その産は極めて難産なり。その子は手に水掻きあり。河童なるべしと言う評判高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れども、なんの甲斐もなく婿の母も行きて傍らに寝たりしに深夜その娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず。この娘の母もかつて河童の子を産みし事ありと言う。この家は如法の豪家にて○○○○○と言う士族なり」。(遠野物語-第五五話)

影山「○○○○○? なんか伏せ字だとうそ臭い」。
堀切「逆だよ逆。遠野人にとっては伏せ字なんて関係ない。真実を知っているからさ」。

 柳田国男は遠野物語出版の準備を終え、明治42(1909)年八月「一度見ておきたい」。と、しばし遠野に遊んだ。彼の目に遠野がどのように映ったか? 帰京するや否や、せっかく出来上っていた原稿を書き改めた。実名を○○○○○と伏せ字にしたのだ。ウソだと思ったからではない。むしろ逆で、真実である確信を得たから。では何故、改めたのか? よりリアルに印象づけ平地人を戦慄せしめるため伏せ字の効果を狙ったと言われる。目論見は見事に成功した。全編の中で書き換えたのは、この五文字だけである。
 この河童は、メドチと呼ばれていたもので、その正体は淵猿。私が第参話で話した飢饉での間引きのために川に流された子供の河童とは違い大人の河童である。紛らわしい、区別しなければならないので河童の亜種として淵猿と言い換える。
 しかし、この一大事を知識人は「あり得る事ではない」。と否定する。人間に最も近いチンパンジーでさえ染色体が一致せず混血は難しい。まして日本猿に至っては不可能だ。これは間男が生ませた子と読むべきだ。村人に語ったのは婿の父だったが良縁に飛びついた己の不明。娘の家への憤り、嫁を寝取られた息子のふがいなさを悔しさのあまり淵猿との因縁浅からぬ家と、針小棒大に作った話であろう。
 理不尽なもの、事実をあからさまにしてしまうと人間関係が壊れるような話を遠野では淵猿や天狗のせいにして納めて来たではないか。謎の失踪を神隠しとしたのと同様、平穏に暮らすための知恵が働いたのである。
 遠野物語は目前の事実を語ったものだ。まして遠野は神々が支配する異界。忘れてはならない。今日か明日かと待ちに待った子供の誕生であったが、変な子に家中騒然として目を疑った。しかし一番驚いたのは産んだ本人。何しろ身に憶えがないのだ。しかし火のないところに煙は立たない。そんな筈ないだろ、母親なのだから。世間は娘を蔑んだであろうが分かりきった事を否定する程辛いものはない。
 いずれ原因はなければならないが、その結果に結び付くものは決して多くない。
 私は、淵猿の夜這いと考える。

影山「夜這いっすか? 夜這いってお互いの合意があって成り立つんですよね。気に入らない相手だと親を起こす。気に入っている相手だとそのまま事に至るし、親も見て見ぬふりとか」。
堀切「そうとも限らない。家同士が仲悪いとか、家の事情とか。ただ、そのようなハードルがあるとさらに盛り上がっちゃうんだよネ。若い二人は。そして激しく…」。
影山「身に憶えがない。淵猿が? 怪奇な話が若い二人の言い訳を擁護する」。

 娘には恋仲の男がいた。三つ年上で、川向こうの商家の一人息子。一人娘であれば婿取り。嫁入りはかなわず、とうとう娘の父は二人の仲を引き裂いた。恋路は邪魔されればされる程燃え上がるのは古事記、神代からの相場。諦め切れない男は夜這い人(よばいっと)となり逢瀬を重ねていた。
それを暗闇の中からじっと見つめる者がいた。早瀬川に潜む淵猿、次郎である。淵と娘の家は目と鼻の先だ。何しろ村一番の美人。自分のものにすると言った野心を抱いていたとしても不思議はない。
 ある晩、密会を覗いた。夜目が効く淵猿である次郎は、男のくせ・しぐさ、そしてあらゆる動作を頭にたたき込んだ。当時の家の中は今では想像できない程、真っ暗で一寸先も見えなかった。闇は『門』に『音』と書く。音だけが頼り。『猿』と言う名は『戯る』からと言われる位、人真似が上手だ。自信を得た彼は、新月の晩その男に化けたのである。声の真似は難しいが男は終始無言であった事も幸いした。
 その日を境に男と淵猿は『タギタギバッコ』いわゆる交代で忍んで行くようになった。婿取りの後も関係が続いたのは夜這いのルールに反するが、意に染まぬ結婚であれば許してあげたい。
 そして夜。その日は商家の一人息子の真似する淵猿の番であった。この淵猿は猿の経立と呼ばれる魔物が進化したもので神の使者と称される。神威が備わる身であれば、身体の小ささ、毛むくじゃらにも気付かれず、その男になりきった。娘を夢中にさせる位は屁のカッパに違いない。この大人河童の淵猿はとにかく助平で、女に悪戯したり川に洗濯に来る女の股ぐらを覗いたりする。
 何故こんな輩が神の使者なのか?
 八百万の神の中、遠野の主神は豊穣を司る山ノ神。春になると里に降りて水神・田の神となる。その降臨する姿は、淵猿が川に沿ってクリの木やヤナギの木を伝い山から降りて来る様子とイメージが合うのだそうだ。遠野では人が死ぬと魂は霊山、早池峰に飛び霊の大集合体を作る。祖霊は永年の風雪にみそぎを受け霊の経立となる。これが遠野の神なのだ。
 私は神への供え物に疑問を感じた。神ともあろうものが何故、我々と同じ物を好むのか。魚は赤魚に限り、願い事にお賽銭と言うに至っては憤りを感じるが淵猿は作り話で、もともとは人間。従って淵猿の好色は人間そのものの欲望なのだ。
 しかし、猿の子でなければ説明がつかない事もある。
 一つは難産。人の妊娠期間、十月十日に比べ、淵猿の子は七月十日と短い。人間の腹を借りている以上勝手は出来ず成長してしまう。
 次には、婿の母が夜這いに気付いても身動き出来なかった金縛り。これは経立の特筆すべき霊力で猟師が経立を撃とうとすると瞬間、指が固まり的を外してしまうのと一緒だ。
 また、生まれた子の殺し方が残酷すぎる。過去からの不名誉を断ち切ろうとする並々ならぬ意志の表れであろう。
 上郷村では奇異で不倫して生まれた子を道ちがい、いわゆる十字路に捨てたが、「見せものにしたら儲かる」。と思い直し、振り返えると、既に何者かに連れ去られていたそうだ。こんな素早い芸当ができるものが淵猿以外にあろうものか。
 さらに喜善が、柳田が○○○○○と伏字した白岩市兵衛と実名で語ったのは遠野では誰一人知らぬ者はいない程有名で名を伏せても皆分かるから。
 夜這いが盛んな当時、父親の特定できない子、不倫の子なんてめずらしくもなんともなかった。他に三例の話があるが、全て川筋の建つ家での出来事である。
 以上の理由から、全身まっ赤、口が耳まで裂けた、まことに醜い子は、手の水掻きの証拠を示さずとも淵猿、間男との子と断言する。
 大正14(1925)年、喜善は推されて土淵村の村長になり、村に電灯を引く事になる。闇を語り、電灯で闇を消し去った不思議な運命を背負った男。

 淵猿の子を孕んだ話は昭和30(1955)年が最後。村の奥まで電灯がともり、夜這いが姿を消したのと時を同じくする。それにしても、実に…、実に惜しい行為をなくしてしまったものだ。

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