【薩摩平氏を訪ねて 7 】薩摩忠友の宝塔(薩摩川内市)
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの石塔をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
薩摩忠友の宝塔(薩摩川内市)
薩摩川内市平佐町権現原(殿の原)に薩摩忠友(さつまただとも)の墓とされる宝塔(鎌倉時代)があります。
薩摩忠友は薩摩平氏一族で、平良道の孫薩摩忠直の長男です。または薩摩太郎忠友ともいいます。
忠友は、父忠直の後を継いで薩摩郡郡司、薩摩本地頭を職を兼ね、生涯で平佐城・隈之城(二福城)・都城(二福城の出城)・矢倉城等に居城しました(生没年不詳)。
忠友は、1183年に羽島・荒川の成枝名(なりえだみょう)を治めると成枝薩摩太郎忠友と名を改めます。鎌倉時代の建久年間(1190~1199年)に作成された建久図田帳(土地台帳)には、川内地方の伊作平氏として薩摩忠友の名があり、「薩摩郡内の中島宮社領1.7町の下司、成枝名86町の名主」とあります。成枝名86町とは百次から串木野を包括する相当広範囲なものであったといわれています。
1197年、島津忠久は南九州(薩摩・大隅・日向)の守護となりました。同年、忠久が大番役として都で任務する24人の御家人(郡司)に宛てた催促状の中に薩摩太郎(忠友)の名があります。大番役は地方武士に京都御所の警護を命じたもので、1回3~6か月の任期。旅費は自費ですが大番役を勤めることは当時とても名誉なことだったようです。







【参考文献】
川内市史 石塔編(1974)川内郷土史編さん委員会
川内市史上巻(1976)川内郷土史編さん委員会
千台第35号(2007)薩摩川内郷土史研究会
