時の澱に光が差す駅【周船寺駅】
福岡の中心部を少し外れたころ、姪浜を過ぎて高架を走る電車が、重い腰を下ろすように地上へと降りていく。
車窓に流れる景色が、都会の無機質なビル群から、空を広く映し出し、遠くの山並みが間近に迫る穏やかな風景へと移り変わる頃、電車はゆっくりと速度を落とし、周船寺駅のホームへと滑り込む。
最近、駅は新しく生まれ変わり、その装いは随分と綺麗になった。
かつての、少し煤けたような、けれど人の手垢が馴染んだ古びた佇まいを知る身としては、剥き出しのコンクリートや整然とした木造の質感が混じる新しい景色に、少しばかりの寂しさがないわけではない。
けれど、新しくなったロータリーに降り立ち、一歩街へ踏み出せば、そこには今も「古き良き時代」の体温が、静かな澱(よどみ)のように積み重なっている。
そんな街の記憶を優しく包み込み、明日へと繋ぐための瑞々しい光のようにも見えるのだ。
この駅を起点に歩き出すことは、過ぎ去った時間と、新しく巡りゆく季節を丁寧になぞる作業だ。
春、駅舎の喧騒を背にして歩き出すと、ほど近い周船寺小学校からは、新しい門出を祝う子供たちの弾んだ声が、風に乗ってホームまで届きそうに響いてくる。
それはこの街が何十年、何百年と繰り返してきた、変わることのない再生の音だ。
駅舎の真新しい壁に春の柔らかな日差しが反射し、冬の終わりを告げる湿った風が、商店街の古い瓦屋根の間をすり抜けていく。
駅前こそ質素な佇まいだが、少し足を伸ばして伊都神社まで歩けば、そこには見事な桜が咲き誇り、静かな境内に春の色彩を添えている。
その薄紅色の花びらが風に舞うとき、私たちはこの街に流れる悠久の時間と、新しい季節の訪れを同時に肌で知るのだ。
夏になれば、駅からほど近い妙正寺の静謐な境内に、容赦のない蝉時雨が降り注ぐ。
商店街の方へ目を向ければ、昼間はひっそりと眠っているスナックの看板や、使い込まれたのれんを揺らす居酒屋が、夜の訪れを静かに待ちわびている。
夕暮れ時、部活帰りの高校生や仕事帰りの大人たちが駅の階段を降りると、アスファルトから立ち上る熱に混じって、どこか懐かしい家庭の夕前の匂いが鼻をかすめる。
それは、大人になっても決して忘れることのない、この駅に刻まれた夏の原風景だ。
秋、この駅周辺の風景は特別な一瞬を迎える。
駅から少し歩いたころ、歴史を無言で語り続ける丸隈山古墳が、鮮やかな赤に染まり始めるのだ。
周囲の落ち着いた街並みの中で、そこだけが燃えるような色彩を放ち、季節の深まりを厳かに教えてくれる。
日が落ちるにつれて商店街の街灯がぽつぽつと、まるで星座を作るように灯り始める。
スナックの厚い扉から漏れ聞こえる微かな歌声や笑い声が、駅を利用する人々の心に、遠い日の記憶を呼び覚ますような郷愁を連れてくる。
かつてはもっと賑やかだったのかもしれないが、今のこの、少し落ち着いた夜の気配こそが、この駅の持つ「街の素顔」なのだと思える。
冬の朝、ホームに流れる空気は針のように凛として冷たい。
遠くに見える山々が白く霞み、電車のブレーキ音や踏切の乾いた警報機が、澄み切った空気の中に吸い込まれていく。
誰もいない早朝のホームで電車を待つとき、足元から伝わる冷たさは、この街の厳しさと温かさを同時に教えてくれる。
凍えるような夜、駅舎から漏れる新しい明かりが、街の道標のように等間隔に家路を照らしている。人々はマフラーに顔を埋め、またこの駅から愛おしい我が家へと、静かな足取りで帰っていく。
歴史の深さを湛える妙正寺や古墳、遠くに控える伊都神社の桜、そして未来を担う子供たちの声が響く小学校。
それらを繋ぐ中心として存在する、新しく生まれ変わった駅。
活気ある居酒屋の喧騒と、すぐ裏手に流れる、誰にも邪魔されない静かな時間。
周船寺駅という場所は、それらが決して反発し合うことなく、長い時間をかけて緩やかに溶け合い、堆積している。
そこには、効率やスピードばかりを求める現代が置き去りにしてきた、穏やかで豊かな「澱」がある。
ガタンゴトンと遠ざかっていく筑肥線の音が、今日も規則正しいリズムを刻んで街の静寂に溶けていく。
都会的な便利さと、手付かずの素朴さ。
そして、大切に守られてきた過去と、これから紡がれる未来。
そのちょうど境界線にあるこの駅で、私は巡りゆく季節の美しさを慈しみながら、この温かなノスタルジーの中に、街が刻み続ける確かな鼓動を感じている。
私は、この駅が、
街が、
狂おしいほどに好きだ。
小鳥遊色鳥
