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「誰だって無価値な自分と闘っている」最終回〜「ヨンシル」という名の存在価値を、みんなが探していた

(※ネタバレ注意)

 カンヌ国際映画祭の開催と時期を同じくして、韓国ドラマ「誰だって無価値な自分と闘っている」(原題:모두가 자신의 무가치함과 싸우고 있다、以下「モジャムサ」)が最終回を迎えた。実に巧みなタイトルだと思う。「誰だって」(原題では「みんなが」)という言葉が、作品の門戸を最大限に広げているからだ。ここで存在価値と闘っているのは、決して特別な人間ではない。「あなたも、私も、みんなそうなのだ」と、画面の向こうから語りかけてくる。

 パク・ヘヨン作品「私の解放日誌」のミジョンは、会社でデザイン力を認められながらも、デザイナーをやめて別の会社に転職する。「徹夜でデザインしても否定されることがある。今の仕事はそれがない。クリエイティブな仕事より合っている気がする」と言いながら。デザインの仕事をする私は、そういう選択肢をいつも思い描いている。ゼロから何かを作り出すのは喜びでもあるが、苦しみでもあるのだ。

 このドラマを視聴しながら、同時に行われたカンヌ映画祭のニュースを見ながら、私はこの作品の「みんなの話」の中に、創作する人間に対する深い問いかけが埋め込まれていると感じていた。「甘い生活」でパルムドールを獲った後、次の作品が作れなくなったフェリーニが自分自身を描いた「8½」が頭に何度も浮かんだ。

劇中劇「天気をお作りします」はSFだったが、「8½」の劇中劇もSFであった。

 かつて橋本治は、フェリーニの「8½」の本質を落語の名人・古今亭志ん生に例えて「語るという行為がそのまんま表現であり、解釈になっている人」と評した。物語の「筋(ストーリー)」という外皮を超えて、作家の語り口そのものがダイレクトに人間の生々しさとして現れ、観客をねじ伏せてしまう心地よさ。パク・ヘヨンという作家の凄みもまた、そこにある。彼女の作品は、ストーリーの面白さ以上に、言葉を紡ぎ、人間を語るという作家の行為そのものが圧倒的な体温を持って迫ってくるのだ。
 
 4作目にして初めてパク・ヘヨン作家は、「自身の存在と対峙する表現者たち」を主人公に選んだ。「私の解放日誌」でミジョンに語らせたその問いが、今回の「モジャムサ」でついに正面から描かれたことになる。
 それでいて、物語を決して特殊な世界に閉じ込めず、「みんな」の話に着地させている。作中、人物たちが吐露する言葉の数々は、過去作以上に、表現者である作家自身の叫びと地続きであるように感じられてならなかった。



制御できないドンマンの苛立ちと、表現者たちの剥き出しの感情


 苦節20年、未だ映画監督デビューできない劣等感と、いたずらに高い自尊心を抱えながら、映画監督として活躍する8人会の会合に足繁く通い、彼らに悪態をつくことがやめられない主人公ドンマンの願いは、驚くほどシンプルだ。

不安じゃないこと。
不安でなければいい。

 なぜ彼は、これほどまでに「不安」なのか。そしてなぜ、不安から逃れるように他人に悪態をつき続けなければならないのか。映画を撮れない焦燥、そして心を病んだ兄を救えない自責。映画を作りたい、兄を救いたいと願いながら、そのどちらもコントロールできない自分自身への激しい苛立ち。その行き場のない不安を誤魔化すために、彼は毒を吐く。それは、彼が「夢」という安全地帯に引きこもり、他者という制御不能な現実に踏み出すことを恐れているからのように見える。

 ドンマンは、特に永遠のライバルであり親友のギョンセ(オ・ジョンセ)の作品に対して、ストレートに悪口を言う、憎まれ口を叩く、暴言を吐き続ける。ドンマン自身がコントロールできていない怒り、嫉妬、負け惜しみ、強がり、反発などが、ドロドロに混ざり合っていて、8人会での孤軍奮闘はとてもストレスフルだ。

 8人会は、ただのクリエイターの集まりではない。映画という夢のもとに集まった人間の感情の見本市だ。ドンマンだけが葛藤を抱えているのではない。新作映画興行に失敗したギョンセの、自己嫌悪とないまぜになった自己愛、ドンマンには指摘されたくないという優越感からくる虚勢の哀れさ。
 ドンマンに寄り添い続けるジュナン(シム・ヒソプ)の優しさは、果たして純粋なものだろうか。傷ついている人間を見守ることで、無意識のうちに自分が優位に立とうとする偽善的な心理は一切ないと言えるのだろうか。

とは言え、実は仲良しなんだ、8人会のみんなは(笑)

 場を丸く収めようとするコ・ヘジン(カン・マルグム)は、会の中で唯一まともで冷静な人間に見える。しかし彼女でさえ、若い脚本パートナー(チョン・ミナ)がごく自然に無邪気にスランプのギョンセを持ち上げ、執筆に向かわせる姿を見て「逆立ちしても自分には持てない才能」を彼女の中に見たはずだ。夫と浮気してくれた(一夜の情事)ほうが、よほどマシだと思ったかもしれない。これまで彼女は、夫やドンマンを、おもちゃのトンカチで制御してきたはずだった。しかし、自分の中の嫉妬や無力感に直面し、さらには無意識の底にあった支配欲に気づいた時、彼女は、チェ代表の見下しを思い出したはずだ。作品制作のためなら、チェ代表のように人間を制御できると思っていなかったか。自分はギョンセにとって、一体どういう存在なのか。妻なのか、それともプロデューサーなのか、と。

カン・マルグムがこの作品で見せる絶妙な演技。ことに、聡明なヘジンの心に、微かな、しかし決定的な亀裂が走った瞬間の表現力。今さら称揚するまでもないわけだが。

 優越感、劣等感、自己愛、自己嫌悪、欺瞞、支配欲、近親憎悪…。
 パク・ヘヨン作家は、人間が他者と関わるときに湧き上がるあらゆる醜悪で切実な感情を、逃げ場のないアジトのテーブルに生々しく並べて、さあ、召し上がれと差し出す。8人会のメンバーも見たくないだろうが、同時に私も目を背けたい気になる。なぜなら、それらの人間の感情を私はすべて持っているし、そして持て余してもいるからだ。己の醜さを差し出されて、気持ちのいい人間などいないはずだ。

不在の少女「ヨンシル」がもたらす解放


 8人会とは別に、ドンマンの周りには、ドンマンと心を共鳴させる映画プロデューサーのウナ(コ・ユンジョン)、その上司であるチェ代表(チェ・ウォニョン)、セレブ女優の母オ・ジョンヒ(ペ・ジョンオク)と娘ミラン(ハン・ソナ)という人々がいる。ウナの元カレ、マ・ジェヨン(キム・ジョンフン)も出てくる。この作品が面白いところは、実体のない少女の名前「ヨンシル」が、一人歩きし、彼らを動かしていくところだ。

 前章で描いた8人会が、人間の醜悪で制御不能な感情を直視する「内なる自己との闘争の場」だったとすれば、「ヨンシル」をめぐる物語は、「閉じた自己から他者へ接続していく場」といえる。
 20年間立ち止まっていたドンマンの夢を力強く前に進めるための、なくてはならない両輪のもうひとつなのである。

 その少女の名前は、詩人をやめ、溶接工として生計を立てるドンマンの兄ジンマンをなんとかこの世に繋ぎ止めるため、生き別れたジンマンの娘を探そうと、ドンマンが決心するところから動き出す。ジンマンが「融通無碍に生きよ/두루뭉실하게살라고」(字幕では「淡く」となっていた)と名付けた娘の名前は、それこそ「融通無碍」に人々をつなげていく。

 まずウナが、マ・ジェヨンが二人で書いた脚本「ノックノックノック」のために、「ヨンシル」の名前をペンネームに借りる。その少女の名前に、捨てられた娘という自分と同じ境遇を見たはずだし、ジンマンを見て、娘を手放した親にも後悔がないわけじゃないことも察したかもしれない。 

母に捨てられた呪縛に閉じ込められているウナは、
おばあちゃんが作った弁当(多分、元カレの分か?)を捨てていた人でもある。

 脚本読みとして一目置かれている女優ジョンヒが、ウナが書いた脚本「ノックノックノック」を読み、これを書いた作家ヨンシルは、自分が捨てた娘だと確信するところは、鳥肌が立つところだ。数回しか話していない娘の話す言葉と、脚本に書かれた言葉に、共通を見出す場面では、オ・ジョンヒの言葉に対する鋭い感性と、長年培った脚本読みの技術の凄みを感じる。この人が、誰かの力を借りて易々と現在の地位にたどり着いたのではないことの証明だ。ここは、ペ・ジョンオクの人を寄せ付けないカリスマと気品溢れる演技を見る楽しさがある。                                                   

「実の娘」問題を金で片付けようとしたが、ウナと真っ向からぶつかるうちに
自分のやり方で真摯に向き合うようになっていったオ・ジョンヒ。
どうしたらこういう人間になれるのか興味津々。

 オ・ジョンヒをただの悪い母親だと見るのは簡単だが、そう見てしまうとこの作品は面白くない。私はこういうしたたかなナルシスト女に惹かれる(笑)妥協しない演技への矜持、映画界も敬意を払う知性と威圧感、感情を武器にしない冷静な支配、何かをつかむために娘も捨てることができる狡猾さに震えるばかりだ。
 ウナについて「私に育てられなくてよかった。立派に育った」と笑みを薄っすら浮かべるところなど、母の子宮に母性を置き忘れて生まれてきた、生まれついての女優という気がするし、小憎らしいほどの自覚もあるのだ。
 こういう人間に、平凡な母親像を押し付けてはいけない。娘を育てることはできなかったが、娘が書いたものを自分の肉体で表現する、してやる!という執念は、女優オ・ジョンヒにしか出来ない価値だ。
  
 その誇り高い母からのメッセージが、ミランを介して、母に捨てられたことを長年の呪縛にしていたウナに伝わる。

かっこいいはわかるけど
멋진 건 알겠는데
人が上等ってどういうこと?
사람이 근사한 건 뭘까?
オ・ジョンヒが、実の娘に会って、上等だって言ってた
오정희가 자기 친딸보고 근사하대

 「근사하다」は「素敵だ、かっこいい」の意味だが、漢字語にすると「近似している」だ。軽蔑していたはずだが、会う度、少しずつその軽蔑の輪郭があいまいになりつつある実の母に、「似ている」という血の関係を匂わす褒め言葉を投げかけられたらどんな気持ちだろうか。それは、固く締め切ったウナの扉を、自分を捨てたと思っていた母が、ミランの手を借りてノックした瞬間ではなかったか。捨てられた人間であることを他人に黙り続けたウナが、母のその言葉を聞いて「私が実の娘だ」と、ミランに告白する流れは、彼女が閉じ込められていた枠からの解放であり、オ・ジョンヒ、ウナ、ミランという母娘の、新たな共同体の始まりを予感させた。彼女たちを静かに繋げたのは「ノックノックノック」の脚本家「ヨンシル」という名前なのだ。

オ・ジョンヒとミランの母娘を静かに操縦してきたパク代表。パク・ヘヨン作品には欠かせない
俳優で、歴代の監督たちもそれを受け継いでくれているのが何よりうれしい。

 ここまでくると「名前」とは一体何なのか?と考えざるを得ない。
 「私の解放日誌」のミジョンは、食用の山羊には名前をつけないと言い、クさんは本当の名前があるにも関わらず「食べられないように、自分にも名前をつけてほしい」という。食用の家畜に名前をつけない理由は、他の家畜と区別して認識してしまうと、失う時に心が痛いからだろうと思う。名前をつけた瞬間に、その存在は代替可能なものではなくなる。
 人間に置き換えれば、名前とは「あなたはここにいるよ」と言われることではないだろうか。名前を呼ばれた瞬間に「私はここにいる、他の誰でもなく存在している」と認識することではないだろうか。

 さらに「ヨンシル」と言う名前は、ミランが繋いでいくわけだが、蔵書を捨てることで、「自分の詩の意味を、自分が決定する権限」を、手放したのジンマンは、現場でトラブルを起こしがちな主演俳優(ソン・ドンイル)のスケジュール待ちで、落ち着かないドンマンに、兄ジンマンは、「お前はもう、そこにいる」という。

ジンマン:「人間」は英語で何という?
ドンマン:ヒューマン。
ジンマン:後ろがもうひとつあるだろ。
ドンマン:マンカインド?
ジンマン:ヒューマンビーイング。ヒューマンドゥーイングじゃないぞ。
     存在するだけでいい。

 9話でドンマンがウナに「どうしてそんなに良くしてくれるのか?」と聞くとウナが「それに値する人だから/그럴 만하니까」と当然の顔で答える場面がある。「그럴 만하니까」の「〜만하다/マンハダ」は「〜する価値がある」という意味だ。ジンマンとドンマンの名前には、「〜만하다/マンハダ」のマン」という「価値」を意味する言葉が含まれていた。生まれた時から、彼らの名前には、価値があったのだ。

制御不能な怪物たちとの戦闘は、千の扉をこじ開ける


 「モジャムサ」という作品の映画界という舞台設定が、単なる物語の味付けに終わっていないのは、新旧の映画人たちの戦闘も描かれていることだ。

ドンマンは、KFA(韓国映画振興協会)の支援を勝ち取る。
KFAって韓国サッカー協会じゃね?(笑)ピッチの中の闘争に勝ち抜いたご褒美である。

 前章にも書いたウナが共同執筆した「ノックノックノック」と、ドンマンの新作「天気をお作りします」をめぐる功成り名を遂げたベテランと何者でもない人間の闘いは、スリリングだ。コ・ユンジョンとペ・ジョンオクによる母娘対決、ソン・ドンイルとク・ギョファンによるベテラン俳優と無名監督の対決、または、コ・ユンジョンとチェ代表による上司と部下対決は、会話劇に陥りがちなパク・ヘヨン作品に、生々しい息づかいを与える。

 ドンマンにとっても、ウナにとっても、百戦錬磨のベテランの彼らは制御不能な存在だったし、彼らに対峙する自分自身も制御不能だったはずだ。
 彼らベテラン三人が持つ厳しさは、単なるハラスメントや古臭さとしては片付けない。それは彼らが、評価が水物である容赦のないエンタメの世界で、長年血を流しながら生き抜いてきた経験ゆえの、狂気にも似た自信が備わっているからだ。

「ノックノックノック」をウナに下読みさせてから評価するチェ代表。損得勘定で生きている人をチェ・ウォニョンが演じると、到底、憎めないのだ。なんだ、その眼鏡は!

 共鳴し合ったドンマンとウナが同志になった今、彼らはこの二つの巨大な壁に一切臆することなく真っ直ぐに対峙していくことができる。ウナが「斧」(チェ代表がつけたウナのあだ名)で扉を壊し、ドンマンが扉をこじ開ける。  

ウナのおばあちゃんのキンパ屋さん(窓)を3回ノックし、おどけた顔を見せるドンマン。

 ドンマンは真正面からぶつかることで、怪物ノ・ガンシクの心を動かし、自作の主演という最高のカードを掴み取った。ウナは偉大な大女優であり母が放つ「私に近似している」という洗礼を自信として受け止め、母に捨てられたという長年の呪縛の扉を自ら押し開け、そして、脚本家としての成功の道をも掴む。

必ずや悪人ではないというオーラが伝わるソン・ドンイル。本人にそのつもりはないが
彼の威圧的な言動が、現場で軋轢を生んだ気がする。彼の言葉を真摯に受け止めたのはドンマン。

 かつてウナは、まだ一本も映画を撮れていなかったドンマンに向かって「監督は、千の扉を開ける人だ」と言った。その読みは当たっていたどころか、ウナ自身もまた、ドンマンが次々と開けていく重い扉をぶち壊していく「斧」を振り下ろす人間だったのだ。

 制御できない天気を受け入れることは、ままならない他者や、ドロドロとした醜い感情を持て余す自分自身をも含めた、制御不能な現実をそのまま受け入れるということかもしれない。そして、傷つくことを恐れずに、他者との境界線に向けて強く拳を突き出し、勇気を出してノックすることかもしれない。もし、世界のどこかからそのノックの音が聞こえてきたなら、今度は臆せずにその扉を開けること。彼らがベテランたちの巨大で重い扉をこじ開けていくプロセスは、「ノックノックノック」と「天気をお作りします」があわせ持つ「そのままを受け入れ、怖がらずにノックし、開かれた扉の先へ踏み出せ」というメッセージと地続きに重なり合っている。

ドンマンの受賞は、成功の証明ではなく、ヨンシルへの「ノック」


最終回には必ず、8人会が揃い踏みで、ドンマンの映画を観に行く場面があると願っていたよ。

 ドラマが終わり、「ドンマンにそんな成功は望んでいなかった」という視聴者の声が案外多くて、ちょっと笑ってしまった。いいじゃない、新人賞くらい、と思うのだが、予定調和に終わったという残念さなのか、それとも、他人の成功を素直に喜べないドンマンの気質が、視聴者側にも憑依してしまったのだろうか(笑)。

ギョンセの「おめでとう!ファン・ドンマン」という掛け声の絶妙なこと。

 ドンマンの授賞式での第一声は、風変わりだ。

兄さん、受賞したよ。これで検索に引っかかる。
ヨンシル、おじさんを検索できるぞ!

 受賞の挨拶は、大抵どんな人も同じように、一緒に作業をしてくれた人や支えてくれた人を讃えるものだ。しかし彼の挨拶は、「検索しろ。ヨンシル、検索して俺たちを知ってくれ」だった。

 彼の夢は「映画を一本作りたい」と「ヨンシルを探そう」だった。
 名声が欲しいのではない。養子縁組組織の手続きではヨンシルの行方を知ることができなかったドンマンは、別の方法を考えていたはずだ。
 一方的ではなく、お互いが「自分の家族の行方を知りたい」と思ったとき、自分が映画を撮って名前を知られることが、そのきっかけになると気づいたに違いない。

 ミランが自分のSNSでヨンシル探しをし、ヨンシルの関係者(養父母だろうか)からメッセージを受け取る。そしてジンマンは再び、詩を書き始めた。そこで物語は止まっている。生き別れた家族が簡単に対面できるかどうかは、養子縁組という制度が持つ繊細な問題の核だろう。それを抑制的に描いている点に、非常に好感が持てる。 

 ここは、養子縁組でフランスに渡った主人公が自分のルーツである韓国に戻り、アイデンティティを探し求める映画「ソウルに帰る」を想起させる。 
 大事なのは、当事者自身が本当の家族に「会いたい」と思えるかどうかということが描かれている。

OST以上に、OSTだったのはジンマンの詩。

 その問題はウナを見れば理解できる。母の現在を知っていながら、自分からは会いに行こうとはしなかった葛藤がある。しかし、呼び出されれば足を運んでしまう自分もいるのだ。

 ドンマンは、ミランが繋いだヨンシルへの糸を、もう少し太く、そして震わせたかったはずだ。会ったことのない家族の存在を知ってほしい、そして空白になっている自身のアイデンティティを埋めてほしいという願いだ。
 ウナが言った「監督は、千の扉を開く人」という言葉は、ここでも生きてくる。ドンマンは、映画制作の扉と同時に、ヨンシルの扉をもノックしていた。彼の新人賞受賞は、作品の価値や作家性の承認という意味と同時に、弟から兄ジンマンへの「兄さんはこの世界に存在していい」という贈り物だったはずだ。
 
 パク・ヘヨン作家は、最後の最後まで徹底して、登場人物たちが明日も生き延びるための面倒を見る。 気づけば、この作品の登場人物たちは、「ヨンシル」という名の何かをずっと探していたのだ。存在しているだけでいいと言う確信を。

オ・ジョンヒが繋いだウナとミラン。コ・ユンジョンは抑制された野望、ハン・ソナは華やかな中に潜む寂寥感という相反する気質を魅力的に表現していた。

 ドンマンの挨拶は、途中で暗転する。世の中の授賞式でよく見る、受賞者の長い挨拶を切るためにさっさと音楽が入る、あのチャチャではない。

「これからも、一生懸命作ります。ありがとうございます」はドンマンの声だが、どうしたって、パク・ヘヨン作家の声でしかない。この作品をやりきったとの思いで書き上げてもなお、もう次を見つめている作家の声に、私は痛々しさを感じながらも、次の作品を早々に待ち望んでいるのだ。

人間たちがバタバタ生きる様子を横目に見ながら、
ただ、そこに泰然自若と存在していたのは、猫のヨルムだった。


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私なりの視点ですが、あなたにはどう届いたでしょうか。異なる視点が交差して、このテーマがより深く、広く広がることを楽しみにしています。
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