「あなたはあの子でできている」第1話
『あらすじ』
30歳の智希は、高校時代から付き合っていた1年後輩の里美と結婚し二人の子どもがいる。順風満帆の日々だったが、ある日高校の同級生の小夏と偶然再会してしまう。小夏とは7年前に一度だけ一晩を過ごしてしまい、その直後に小夏は姿を消していた。
専業主婦の妻の里美の締め付けを苦しいと思っていた智希は、キャリアウーマンとして現れた小夏をつい眩しく思う。まだ小夏も自分を思っているのではないかと探りを入れる智希だが、小夏は智希を突き放す。一方で里美は小夏との再会も過ちも全部知っている、それでも絶対離さないと怒り狂うのだった。
<本文>
人は、自分の人生に疑問を持つことがあるのだろうか。
果たしてこれで良かったのかと。
少なくとも俺はそれなりに器用にこなし、取り立てて挫折もなく生きてきたはずだ。
それなのになんなのだろう、この感情は。
あの再会のせいか。
あの夜のせいか。
いや、本当はあいつと出会った時からなのか──
「──智希?」
それは、突然だった。
智希が会社帰りにふらりと本屋に立ち寄った時だ。
『こうすれば仕事の効率がアップする』そんな自己啓発本を手にして、ホントかよ、高いな。でもこれを読めば多少はスキルアップできるんじゃないか、などと逡巡している時だった。
「え?」
突然下の名前を呼ばれて顔を上げ、声の主の方を見る。隣には長身細身でショートカットの女性が立っていた。小麦色の肌に、麻素材のベージュの上下のパンツスーツ姿。胸元には細い金の鎖が光っている。
「やっぱり智希だ! 私のこと分かる? 覚えてる? 小夏、進藤小夏!」
女性は目を細めて溌剌とした笑顔を見せた。あの頃と変わらない笑顔で。いや、後から智希は思った。目尻の皺は随分と深くなったな、と。
進藤小夏。
何言ってるんだ。忘れるわけないじゃないか。
智希と小夏は高校の同級生だった。
同じバドミントン部。クラスは違ったけれど、さっぱりとした男気溢れる小夏とは気が合い、よくつるんでいた。
それでも智希は小夏を女として意識したことは全くなかった。板みたいな体でひょろっと背が高く、髪はショートで見かけは男のようだった。なんならガサツで、サバサバしていて中身だって男だった。
名前は小夏なのにデカいよな。智希はそんな軽口をよく叩き、聞いた小夏はがははと口を手で押さえもせずに上を向いて大笑いしたものだった。
そもそも智希には彼女がいたのだ。
一年下でバドミントン部のマネージャーの里美。入部してきた彼女を見た途端、智希の頭の中は里美でいっぱいになった。小柄でふわふわと天パの髪を肩の上で揺らし、つぶらな瞳に色白な肌。一緒に入部したもう一人のマネージャーの背中に隠れるように行動する彼女は、守ってあげたくて仕方のなくなるような子だった。
里美はモテたのか。
それは分からない。誰かにとられまいと、里美が入部すると智希は早々に猛アタックしたからだ。その甲斐あって、夏前にはもう里美と付き合っていた。
「おかえりなさーい」
「りなーい」
マンションの玄関を開けると、二人の子どもが玄関に駆け寄ってきた。四歳の優愛と二歳の海翔。
「ただいまあ」
靴を脱ぐと鞄を床に置いたまま、右手で優愛、左手で海翔を抱き上げる。総重量二十五kg。そろそろ腰に気を付けねばとは思っている。
「おかえりなさい」
ワンテンポ遅れて、奥から里美が玄関に来た。ノースリーブの花柄のワンピースに白いエプロンをつけ、肩上の髪を後ろで結んでいる。
そう、智希は高校時代の彼女と結婚したのだった。
シャワーを浴びると、テーブルには里美の作った夕飯が並べてあった。四人で食卓を囲む。今日は肉じゃがだ。
「・・・・・・でね、海翔がライちゃんとおもちゃの取り合いになってね。そしたらライちゃんママが──」
二人の子どもに食べさせながら、里美は自分も料理を口に入れ、そして今日の出来事を次から次へと話し出す。今は優愛の幼稚園が夏休みで、二人の子どもを一日見ているのだから色々大変だろう。そういう内容を絶えることなく話し続け、智希はタイミングよく相槌を打っていた。
里美の甘い肉じゃがを口に入れながら。
結婚したときは里美の作る煮物が、甘くて驚いたものだった。決して下手なわけではなく、これが里美の実家の味付けらしい。最初の頃は甘いなあと口には出さずとも心の中で不満に思っていたのだが、そのうち慣れてきてしまった。他にはご飯が先か風呂が先かとか、箸は下向きに立てるのかよとか、細かい違いは色々あったのだが、この七年間ですっかりこの生活が当たり前になった。
結婚生活とは、そういうものなのかもしれない。
「ねえ、智希聞いてる?」
急に名前を呼ばれて、智希は我に返る。気がつけば優愛も海翔も食べ終わり、食卓のあるリビングでブロックで遊び始めていた。
「ごめん、ごめん、今日会議が長引いてさ。ちょっと頭がボーッとしてるんだよね」智希はこめかみを押さえて、慌てて取り繕う。
「そうなの? お仕事 大変なのね」
里美は疑うことなく、すっぴんの目をまばたきさせて智希を見つめた。
二人を寝かしつけると言って寝室に行ったまま、里美はリビングに戻ってこない。多分一緒にそのまま寝てしまったのだろう。一日中、まだ手がかかりまくる二人の子どもに付きっきりなのだ。疲れているのも無理はない。
開く気配のない寝室のドアをちらりと見ると、智希は鞄の中から財布を取る。クレジットカードの裏から一枚の名刺を取り出した。
さっき交換した小夏の名刺だ。
カンボジアの人材育成団体を立ち上げたのだという。肩書きは『代表』だった。
高校の時は、小夏がそんなことをするなんて想像していなかった。だけど日に焼けた肌で(小皺は目立ち始めていたが)、スーツを着こなしヒールを履いたそのキャリアウーマン然とした姿は、あの頃予想した小夏の将来そのものだった。
こうして二児の父になり、サラリーマンをしている自分も、あの頃想像した自分の範囲内だ。白いエプロンをつけて専業主婦をしている里美も。
智希はテーブルの上のスマホを手に取り、メールを打ち始めた。
第2話
