シン・現代詩レッスン385
野村喜和夫『パッサル、パッサル』。少し現代詩も読んでみよう。「パッサル」はマレー語で市場ということだと自注にあった。こういう分からない言葉は脚注が欲しい。造語でもいいんだけど。
世界以前 野村喜和夫
ⅰ
おめでとう
パンデミックのさなか
でさえも
時は静かに発酵し
すっかり人気のなくなった午後の公園の
滑り台やジャングルジムに
どこからゆらゆらと
水子たちが集まってきて
まつわりつき始める
シオランの反出生主義を踏まえているとか。生まれてもしょうがないということか。
公園に人がいなくなるのは、パンデミックだから。水子が人がいないところに集まってくる。最初の「おめでとう」は『新世紀エヴァンゲリオン』の終末論的なセリフを思いだす。通常は生まれたことへの祝福だが、生まれて来ない者たちの祝福か?たから水子が集まる。世界以前は言葉がコード化される以前ということとか。不定形な意味をなさない原初の詩みたいな言葉なのか。それは言葉が完成される出生以前というような。そうすると水子もそうした未分明の言葉ということなのかも。
言葉にならないウーとかキーとか
この世に生まれ出なかった子供たちは
それでもどこかで明るそうで
むしろ生まれ出なかったことの喜びを
ざわめかせている
かのようだ
ただそこは水子のような生まれないにしても未分化した言葉の原初はある。アーとかキーとか。それはこころの中にある言葉ではないのか?つまり、まるっきり存在がない状態でもない。混沌としたものがある感じ。神話世界では混沌とした状態は世界以前ということ。
ⅱ
おめでとう
脳葉ひらひら舞っている
どころの騒ぎでは
なかったよ、(world's end)ひくひくと
パンデミックのさなか
でさえも、時は静かに発酵し
終末論的な思考なのか?キリストを信じる者は救われるというような。キリスト教でなくてもいいけど。アニミズム的な世界がやってくるということかも。樹木人間になる。脳葉は言葉遊びだと思う。無意識的だとすれば、そこから一神教以前のアニミズム的世界があらわれてくる。発酵というのも自然界の生業というような。そこは人間中心主義的なものが終わり、自然中心な世界がやってくる。
でも眼の高さに、麩音かよ、不穏かよ
まま非隠蔽
人のなま身の
筋肉の束の、はらはら
うごめくのが透けてみえたり
おおっと舌、びーん張りつめて
そうきみの始まりの音
「麩音」という言葉遊びで「不穏」の意味を変える(ずらしてみる)。そうした片側の世界(無意識)は隠蔽されてきた。そう思うと片側の世界が蠢きはじめる。舌が延びてくるのは欲望の始まりか。そして君の始まりという無意識の世界の生成変化がおこなわれる。
びーんだったか
きーんだったか
それからあわあわと
声になりそこねたことば
だったか、ことばになりそこねた声
だったか、人称のほつれまでは
まだ数ブロックさき、すっかり人気のなくなった
午後の公園の、滑り台やジャングルジムに
廃墟とかそういう場所に霊的なものが存在するのは、スピリチュアルなものかもしれない。詩人は巫女的なシャーマンだとするとまさにシャーマニズム的な詩なのかもしれない。それは宗教以前のアニミズム世界。つまり水子の霊とか霊性なことばの世界なのか。公園は現実な場所から神話や寓話の入日としての境界性の場所になる。ジャングルジムという自然ではないが言葉だけのイメージから深層世界のジャングルへ侵食していくのだ。それも玩具として。
分子状うしろむきに
うるうる、析出されてゆくんだ
鏡像、半身のない
ツン、のめるような
だからむきだし、純粋、あてどない
そんな欲望の薄膜がひりひり
するのでした、時の始まりの、何かしらすべすべに
誰かしら私かしら、ほそい手が触れるとき
ワッ、キーン
ワッ、キーン
鏡像段階は分身した自分をドッペルゲンガー的に見せる霊力みたいなもの。それは無意識的な言葉だから、そこに生成していくことばは他者の姿になっていく(つまり分析出来ない)。
そして、発酵した霊的なことば性別も区別もなくなる混沌とした世界の霊(スピリチュアルな存在)であるわけだから私が私でなくなる状態。それはことばが産み出す「私」という生成変化でもあるのだ。
帰趨と数奇も、みんな水になったら
まぜまぜでいのに、みなみはある
はじめてのからだのなかにだって、ほら
お尻の奥のほう
ぷるん放出!えっ?
きやん結合!えっ?
言葉遊びの世界でパッサルがパッと猿になることかと思ったのはバザールでこざーるで猿のイメージが着いてしまったからかもしれない。このみなみもみんな水というような意味から南島論というようようなマレビトが南からやってきたというような。そう言えば猿楽というのは芸能の発祥的なものだったのだ。猿をイメージしてしまうのも当然なのかもしれない。
バザールでござーる
くまさんは警察に逮捕され猿のように檻に入れられた。
彼は猿回しのふりをするつもりが猿はいないので自分が猿になるしかない。
その頃覚えたことばはおまじないのように「バザールでござーる、バザールでござーる」を繰り返すとそこは市場になっていた。
女の子は「森のくまさん」を歌いながらやってくる。おまわりさんは犬になっていた。仕方がないので彼は犬回しをやってみたのだ。まだ慣れない犬なので犬に噛みつかれて散々なサザエの目に合う。女の子は竜宮の姫になってサザエの治療をする。それでは逆ではないか?助けた亀に連れられて竜宮へいくので犬から亀にする必要があるのだ。亀は千年生きて歳も過ぎていくかと思ったけれども、百年くらいだと爺さんだ。くま爺さんは「ゴリオ爺さん」に負けないぞ!と思ったのは負けず嫌いからなのか?
