流れていく
実家の草取りが一段落したので、庭木の剪定を始める前にと、退職1周年のタイミングで旅に出た。1年前に子供たちがプレゼントしてくれた旅行券で大好きな長野に宿をとり、金沢まで行ける新幹線に乗って初めて上田の駅で降りる。古い街道沿いの柳町には酒蔵や味噌蔵が並び、古民家で天然酵母のパンを買って屋根裏に登れば、神棚の下で吉田博の富士山がお出迎え。上田城の神社で茅の輪をくぐって、お城北側のお茶屋さんに入ると、御年92歳の翁が抹茶を煎じてくれた。季節の草花を配した庭にはクチナシが香り、翁は昔片道6時間かけて東京にお茶の稽古に通った話。茶室の名前は、お母さんから一文字をもらって。
ローカル線に乗り換えて温泉を目指すと、窓の外には山の景色が流れて、ガタンガタンと規則正しく揺られていると、気分は「千と千尋」になって異界へと向かうよう。終点で降りて、川音を耳に細い坂道を少し登ると、程なく緑の庭に囲まれた古い宿に着いた。中に入ればお香が漂い、迎える女性はピンクの着物に紺袴。長い回廊を案内されて、着いた部屋の番号が31、これを祝福と言わずして何と言おう。風呂付きの部屋もある為か、大理石の大風呂は貸切りで、ステンドグラスを眺めながらかすかに硫黄の香るお湯に浸かると、まさにこれこそ命の洗濯。一品ごと美しい器に盛られた料理を堪能して、太い梁が天井を覆う食堂を後にした。
夕食の地酒が効いたのか、夜中に喉が渇いて目が覚める。暫く窓際の椅子でスマホを眺めてから、布団に戻って久しぶりにミュージックプレーヤーのスイッチを入れた。聞こえてきたのはキース・ジャレットのケルンコンサートpartⅠ。この曲を初めて聴いたのは学生時代の夏休み、1ヶ月住み込んだ長野の山小屋で、仕事終わりにみんなでストーブを囲んでいると、バイトの誰かが残していったカセットテープが流れてきたんだった。映画になってリバイバルしているその曲をイヤホンで聴いていると、半世紀前の即興演奏が奇跡に思えてくる。ランダム再生で次に流れてきたのは、上原ひろみが演奏するジャズアレンジのベートーヴェンピアノソナタ8番第2楽章、次がステファン・グラッペリでその後はカーペンターズ。自分で詰めたお弁当よろしく好きなものばかりだけれど、データを入れたのが随分前なのでその分新鮮に聞こえる。それぞれの曲を初めて聴いた頃の記憶が蘇って、頭の中にいくつもの時が流れ出す。つげ義春が描いた家族の鉱泉旅行のような寄る辺無さとまでは言わないけれど、随分長く遠くまで流れてきたような感慨が湧いてきて、この先あとどれ位何処に向かうのかは分からないながら、お陰様でそう捨てたものでもないかとウツラウツラするうち、いつの間にかまた眠りに落ちた。
