やさしくなりたい
つい先日、雑誌は鮮度が大事とか言いながら、ようやくスピンの最終号を読み始めた。いや、大切に読みたいと思って‥。巻頭の斉藤壮馬さん「フェアウェル・パーティー」、久しぶりに実家に帰ったら、家族が「離散式」をやるという。何それ?と思ったら、本当に家族が明日からそれぞれの道を歩み始めるという話で、実は主人公の私も。意外な展開にも拘わらず、家族同士の距離感が心地いい。きっとそれは、ベースにお互いの信頼があるからなんだろう。
いよいよ、義母の我が家への夜だけショートステイが始まった。もう少し先の予定だったのが、3日前の夕方に電話があって、エアコンの切り方が分からないという。それ以前、閉め切った部屋で毛布をかぶって熱中症みたいになっていたので、妻がエアコンを付けてきたのだが…。行ってみると、何度説明してもエアコンのオン・オフが分からない。この間は、寝室のエアコンに居間のリモコンを向けていたし、熱帯夜なのでもう無理だなということで急遽。
今年95歳になる義母は、つい2,3年前まで、脳トレ代わりに百人一首を毎日ノートにきれいな字で書き写していた。足腰の運動といっては、庭の芝生にいくつか穴をあけて、ゲートボールのスティックでグラウンドゴルフもどきをしていて、自分の他に仮想競技者の二郎さんと三郎さんを連れて、三人分のスコアを付けていたものだった。それがいつからか、出されたアイスが冷凍庫ではなく冷蔵室に入っていてトロトロだったり、1円単位で記録していた生協の注文が感覚的になって、配達の人がビックリするほどの食品が毎週届くようになってしまった。
年齢的に少しずつ出来ないことが出てくるのは仕方ないと頭では分かっているのだが、ずっと聡明で元気な義母を見てきたので、どうしてこんなことが分かってもらえないんだろう?という淋しさの入り混じった気持ちがあって、時々ついイライラしてしまう自分がいる。それが傲慢であることが分かるので、余計に自分が嫌になる。結局、自分のやさしさは意図が通じ合うことが前提の表層的なものでしかないんだろう。解剖学者の養老孟子さんが、子供は自然に属するものなので、社会がどんどん自然を排除してきた中で子供が減るのは当然だという話をされていたが、老人も自然の部類なのかもしれない。しかも、子供は少しずつ成長していくけれど、老人はこれまでの経験や意識を持ちながら逆に少しずつ‥。なのに、結局私は全部頭の理解で、話が通じない人にどう接していいか分からない。日頃から「自分も自然の一部」とかうそぶきながら、肝心な自然との付き合い方が何も身に付いていないということか?ああ、やさしくなりたい…。
