往復書簡
今、往復書簡がアツい!もし私が文芸雑誌の編集者だったら、そんな企画を提案してみたいところだ(通るか知らんけど)。 衿さやかさんが「素手でさわってもいいよ」の中で齋藤あおいさん、染水翔太さんのお二人と往復書簡をされていて、それを読んだ村崎なつ生さんが、今度は衿さやかさんと「499km」という往復書簡本を出された。かと思ったら、1年ぶりに復活したナミンさんとバクさんの「豆と小鳥」でもこれから往復書簡が始まるという(ほら、キテルでしょ?)。勿論、ここで言う往復書簡は他の人に読まれることを前提としたもので、やりとりも(多分)手紙ではなくメール等の電子的なものによるのだろうけれど、昔は文通というのがあって、雑誌の読者コーナーなんかにペンフレンド募集の掲載があった。全国の人に自分の住所を公開するという、今の感覚からすると随分大胆な行動だけれど、そういう習慣があったお陰で、爆風スランプの名曲「大きな玉ねぎの下で」も生まれ得たわけなのだった。
話は変わるが、茨城県の五浦(イヅラ)海岸はかつて岡倉天心が日本美術院(の絵画部門)を移転し、そこで横山大観や下村観山、菱田春草と言った錚々たる画家たちが畳敷きの一間に並んで日本画の創作を行った場所で、今でも海に臨む旧天心邸が残されているのだが、そこから断崖絶壁の海沿いに少し歩いた場所に茨城県天心記念五浦美術館がある。高台に建つ眺めのいい美術館で、初めて岡倉天心の常設コーナーを訪れた時、特に二つの展示に心を惹かれた。一つは天心が校長を務めた東京美術学校(今の芸大)の卒業証書(確かレプリカ)で、その凛とした線と色彩に美に仕える者の矜持が感じられる。順路に沿って展示室を進むと、出口の手前で古い手書きの英語の手紙に目が留まった。直接は読めないので翻訳の方を読むと、美しい詩のような文章が綴られていて、内容がどう読んでもラブレターなのだった。それはインドの女流詩人プリヤンバダ・デーヴィーからのもので、船便で片道1カ月かかる時代に、晩年の天心はプリヤンバダと文字通りの往復書簡を取り交わしていたようだ。天心が亡くなる一月前、プリヤンバダに宛てた最後の手紙はこんなふうに結ばれていて、「戒告」という詩が添えられている。
いいえ 何も書くことはありません
お元気でいらっしゃることを念じます。ほんとによくおなりですか?
私は元気で幸せです
戒告
私が死んだら
悲しみの鐘を鳴らすな 旗をたてるな
人里遠い岸辺 つもる松葉の下ふかく
ひっそりと埋めてくれ
あのひとの詩を私の胸に置いて
私の挽歌は鷗らにうたわせよ
もし碑をたてねばならぬとなら
いささかの水仙と
たぐいまれな芳香を放つ一本の梅を
さいわいにして はるか遠い日
海もほのかに白む一夜
甘美な月の光をふむ
あのひとの足音の聞こえることもあるだろう
旧天心邸と道を挟んだ山側に、染井の墓地から分骨して作られたという土を盛っただけの奥津城がある。今は道路越しになってしまったけれど、作られた当時は、きっと穏やかな波音が寄せては返す中、眼前の海から昇った月の光が真っ直ぐそこに射し込んだことだろう。その後ろには一本の紅梅があって、今でも春になるとほのかな香りを辺りに漂わせてくれるらしい。
