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【短編小説】帳尻

 現代の不意打ちはいつも掌の上からやって来る。
 スマホの液晶画面に浮かんだニュースの見出しは、ちょうど急カーブへと差し掛かっていた地下鉄よりも遥かに俺を揺さぶった。
「落語家・天竺亭玉水(てんじくてい・ぎょくすい)さん亡くなる」
 嘘だろ、とつぶやく間もなく、俺は電車の扉にもたれたまま、膝が抜けそうになった。あの、玉水師匠が亡くなった。心筋梗塞だったらしい。それにしても、突然すぎる。先月、高座を聴いたばかりなのに。そして最も見たくなかった文字が、記事の最後に記されていた。
「昨年十二月十一日、秋津市文化ホールでの『芝浜』が最後の高座となった」
 俺は確かにその客席にいた。そして三十四年の人生の中でも最大級のしくじりを起こしたのがその高座での出来事だったのだ。

 その日の玉水師匠は掛け値なしに素晴らしかった。久しぶりの秋津市での独演会。時事ネタを絡めた軽快なマクラから、一席目の『野ざらし』で爆笑をとった。そして仲入り後の二席目、トリの演目は待ってましたの『芝浜』だ。年の瀬に玉水師匠の十八番を聴くことが出来たという幸福感がホールの隅々にまで満ちていた。芸歴五十年でますます磨きがかかった『芝浜』は、すべての観客の心を虜にしていった。
 噺はついに山場に差し掛かる。女房が亭主に、隠しておいた財布を見せるのだ。芝の浜で財布を拾ったのは夢ではなかった。しかし女房の機転で亭主は身を持ち崩すことなく、真人間として立ち直ったのだ。玉水師匠はこのくだりを、まるで客席一人ひとりの隣に女房がいるかのような距離感で演じてみせた。絶品だった。そしていよいよ大団円、久しぶりの酒を勧められた亭主の一言が、これ以上ない粋なサゲとなる。その、直前だった。
 唐突に、耳障りな電子音がホール中に鳴り響いたのだ。一瞬で人々の眼前から江戸の風景は崩れ去り、令和元年竣工の公共ホールへと引き戻された。誰かの携帯電話が着信音を発している。それも、馬鹿みたいな音量で。
 あろうことか、それは鞄の中に仕舞われた俺のスマートフォンから発せられていたのだ。事態を飲み込むのに数秒はかかってしまった。まさか、俺がこんなことをしでかすなんて。普段から音を出さないマナーモードに設定しているはずなのに。
 単純な失敗だった。仕事の取引先と話をした後で、折り返しの電話を待つためあえて着信音を通常に設定していたのだ。電話は来ず、すっかり忘れてしまっていた。鞄の中でスマホは容赦なく鳴り響く。まるで餌をねだる雛鳥のように騒々しく俺だけを呼び続ける。
 冷たい怒りを伴った二百人以上の視線が集中するのを感じた。スマホを探すのを諦めた俺は、鞄を抱えて背を屈め、逃げるようにして会場を出ることを選んだ。一瞬だけ、玉水師匠の方を見ると、彼は無言のまま、ただ正面を穏やかに見据えていた。噺をぶち壊した原因が会場を去るのを静かに待っているようだった。火達磨にされたような勢いで、俺は会場を飛び出した。
 エントランスでようやくスマホを鞄から取り出すと、何事も無かったかのように呼び出し音は止まっており、画面には静かに取引先からの着信履歴が表示されていた。ため息をつく間もなく、会場の中から拍手が起こった。
「よそう、また、夢になるといけねえ」
 玉水師匠は一呼吸も二呼吸も置いた後、『芝浜』のサゲだけを発したのだろう。アクシデントにも関わらず、会場では力いっぱいの拍手が起こっているに違いない。だが、誰もいないエントランスに聞こえてくる称賛の音は、冷たく重い扉に遮られて、低くくぐもって聴こえた。そう、俺は拍手の中にいる資格のない人間なのだ。
 会場から出てくる人々と顔を合わせるのが怖かった。とにかく逃げたかった。俺はホールの玄関を飛び出したが、外の冷たい空気を浴びてもなお、胸の動悸が治まらなかった。俺のしくじりを知っている人々から一秒でも早く距離を取りたい。その一心で夜の街を歩き続けた。どこをどう歩いたのか覚えていない。気がつけば、知らない街の通りに立ち尽くしていた。日本酒の看板、焼き鳥の焦げる臭い、自転車のベル、行き交う人々…俺の溶け込める場所はどこにも無い。誰も俺の醜態を知る者はいないはずなのに、いたたまれない気持ちは胸の中で渦を巻いたまま消えなかった。それが先月十一日の出来事である。

 危うく乗り過ごしそうになった最寄り駅を降り、アパートへと歩きながら、俺は心の中で何度も記事の内容が間違いであることを祈った。あの日の、あの高座が、玉水師匠の人生最後の高座だったなんて。そんな馬鹿なことがあってたまるか。しかし、帰宅してからいくつものニュースをネットで検索してみても、「秋津市文化ホールでの『芝浜』が最後の高座になった」事実は覆らなかった。
 会社のミスや、人間関係の失敗なら、大抵のことは後で修復可能だろう。しかし、俺が壊してしまった師匠の最後の高座だけは、もはや永遠に取り返しがつかない。玉水師匠は俺のせいでサゲが台無しになったあの一席を、悔いてなかっただろうか。自分の愚かさを反芻する度に俺の胸はきりきりと傷んだ。

「おい、クライアントはキャッチしてないって言ってるぞ。君のミスじゃないのか」
 小塚課長の叱責が飛ぶ。週明けに納品予定だったウェブ広告のバナー案、こちらは三案送ったつもりだったが、先方には一案しか届いていなかった。依頼人との意思疎通が不十分だった俺のミスである。
「すみません、確認の電話入れます」
 送信履歴を辿ると、案はちゃんと添付していた。しかしメールの文面に「三案お送りします」と書き忘れていた。件名もシンプルすぎて、注意して見ないと添付に気づかれにくい。確認の電話を入れる前に、すでに先方の担当者から「これだけですか?」と念を押すような返信が来ていた。
「なんでシェアしたつもりで済ませるんだよ。相手に届かなきゃノーデータと一緒だろう」
 玉水師匠が亡くなってしまったあの日から、何かにつけて失敗が目立つようになった。俺はそもそも生来の口下手なのだ。あの日以来、心ここにあらずといった感じで、言葉足らずや説明不足に拍車がかかっている。
「君はもっとアサーティブ・コミュニケーションを意識するべきだぞ」
 小塚課長は横文字と唾をたくさん飛ばして力説する。身長は百六十センチあるかどうかだが、目つきはやり手のビジネスマンらしく鋭い。たとえば「プロアクティブに動け」とか「ファクトベースで話せ」とか、言いたいことはわかるのだが、こちらにその手の辞書が内蔵されていないので、たまに処理が追いつかず、結果的に俺は沈黙してしまう。
 課長は小柄だが弁が立つので、怒られている時はその姿が大きく見えた。声の抑揚も、手振りも、はっきりしている。ふと、落語家の演技もそうだよなと考えたが、俺の心を見透かしたように課長の語気が強くなったので、すぐに現実に引き戻された。
「君はいつも肝心なところで詰まるよね。あれ、クライアントには、プランニングがゼロってサインに見えるぞ?」
 俺に発破をかけるつもりで小言を言っているのは理解できる。しかし何をどうしたら良いのかさっぱりわからなかった。自分では伝えたつもりでも、相手に届いていない。話しながら、自分の言葉が空中で霧散していくような感覚。話の上手い人がうらやましい。だから俺は、落語家の話芸に魅せられたのかもしれない。

 初めての落語はCDの音源だった。母親が図書館司書だったせいで、幼い頃から熱心に本を勧められた。だが、俺は活字にはあまり関心を示さなかった。
「せっかくいつでも本を借りて来られるのに、勿体ないわねえ」
 父も母もあまり喋る人ではなかったので、俺の口下手は親譲りなのかもしれない。父は町工場で働く寡黙な職人気質で、母も司書らしく図書館の静寂が似合うような大人しい人だった。家に居る時も、父は大体居間でテレビを観ていたし、母は台所の椅子に座って本を読んでいることが多かった。父母の主な対話の相手は、工具箱や書物だったのかもしれない。そんな両親を見て育った一人っ子の俺も、必然的に口数少なく育ってきた。
 息子が本にあまり興味を示さないことを残念がる母親が、ある日気まぐれで借りてきたもの。それが落語のCDだった。『寿限無』『饅頭こわい』『道灌』『くっしゃみ講釈』…この音源たちに俺は心を奪われた。落語の世界は愉快で、楽しくて、不器用な人間も受け入れるおおらかさがある。小学生にはまだわかりにくい噺もあったが、名人たちの滑らかな語りに身を委ねているだけで楽しかった。
 すっかり落語にハマった俺は、図書館にあるCDをどんどん借りてきてほしいと母親にせがんだ。
「次は、『火焔太鼓』が聴きたい!」
「そんなに好きなら、もっと早く借りてくれば良かったわ」
 勤め先の図書館に備えてあるものを全て聴き終わると、母親は隣町の図書館にも出かけて落語のCDを借りてきてくれた。息子がそこまで熱中するものを見つけたのは初めてだったので、母親も嬉しかったのだろう。
「はい、今日はこれよ」
 ある日、母親が帰宅してバッグから取り出した落語のCDは『粗忽長屋』だった。なぜかは覚えていないが、その噺だけは食卓で夕飯を食べながら一緒に聴いたことをよく覚えている。そそっかしい男が行き倒れを見て同じ長屋の男に違いないと思い込み、長屋の男もそそっかしいのでそれを信じ込んで自分の亡骸を引き取りに行くという、ナンセンスの極みと言ってもいい噺だ。
「どけってんだこの野郎!当人をつれてきたんだから!当人を!」
 不条理な展開がツボにはまり、俺達は文字通り、ご飯を吹き出す勢いで大笑いをした。母と一緒に声を上げて笑ったことなんて、そう多くはない。その噺を演じていたのが、天竺亭玉水師匠だったのだ。
 なにしろむさぼるようにたくさんのCDを聴いているのだから、それぞれの落語家の個性というものがわかるようになってくる。玉水師匠は俺の一番の贔屓になった。
「では一席お付き合い願いましょう」
 師匠の高座は本当に嫌味がなく、すっきりとしているのが持ち味だ。声だけの世界なのに、師匠は変幻自在に姿を変える。長屋の男衆になり、おかみさんになり、与太郎になり、ご隠居になり、時にはもののけになる。その全ての語り口調が自然で、どこか懐かしく、じんわりと心にしみた。
 成長し社会人となってからは、実際に高座を聴きに行った。玉水師匠は痩身に白髪交じりの頭、眉の濃い顔立ちで、出囃子と共に登場しただけで会場の空気が変わるほどの風格があった。年齢を重ねてもよく通る声に熟練の所作が加わると、目の前にありありと登場人物の姿が浮かび上がってくる。話すことの苦手な俺にとって落語家はヒーローであり、憧れの存在だった。だが、よもや、その最後の高座を自分自身のしくじりで汚してしまうとは、夢にも思わなかったのである。

 春の足音が近づき、街路樹のつぼみがほころび始め、上着の前を開けて歩く人が目立ち始めても、俺の心がすっきりと晴れる日は無かった。あの日から俺は通勤のルートを変えた。駅へ真っ直ぐ向かう道には、あのホールがある。それが視界に入るのを避けたかった。申し訳無さというよりも、あの時の苦すぎる思いが出来るだけ胸に蘇ってこないようにするための防衛本能だったのかもしれない。
 あれだけ好きだった落語も、聴くことが出来なくなってしまっていた。寄席に出かけることは勿論、ネットで動画を視聴する気にもなれない。世界を大きく広げてくれた落語。日常の様々な嫌なことを忘れさせてくれた落語。流暢な喋りと人を惹き込む演技、その両方に憧れ続けてきた落語。だが、今の俺にはそれを聴く資格が無いように思えた。なにしろ、自分の手でその場を壊してしまったのだから。

 初夏を迎え雨がよく降る気候となった。ずっと梅雨空のようだった俺の心に追いつくように、天は分厚い雲が連日ひしめき合っている。その日も突然の強い雨が降りしきり、街のいたるところを黒く染め上げていた。
 俺は仕事で疲れ切った身体に傘を差し、通りを急ぎ足で歩いた。早くアパートに帰りスーツを脱ぎたい。そんな気持ちと、傘で視界がある程度隠れることを頼みにしたのだろう。俺は久しぶりにあのホールを横切る通勤ルートを選んだ。それは以前と何も変わりない風景のはずだった。しかし、ほんの少し、ホールの入口に目を向けた俺は、傘を持っていることも、雨が降りしきることも忘れて、思わずその場に立ち尽くしてしまった。
『十二月十一日、天竺亭玉水独演会において、携帯電話を鳴らされたお客様を探しております。該当の方は事務室まで』
 ホール玄関横の掲示板に貼り付けられたその文章は、長い間じっとそこにあったことを証明するように、日に焼けて少し黄色く変色していた。右下の一部が破れ、テープで繋ぎ止められている。
 間違いなく、俺のことだ。内容は簡潔で、責めるような言い回しはどこにも無い。だからこそ、余計に重く、その文章は俺の心に突き刺さった。五分間ほどそのまま動けなかったが、やがて何かを誤魔化すように、俺は顔を傘の奥へと引っ込め、その場を立ち去った。降りしきる雨はいつまでも止みそうになかった。

 それから数日、俺は何度も、あの貼り紙のことを思い出していた。寝る前、仕事の合間、コンビニでコーヒーを選んでいるとき。ふとした瞬間に、俺だけを呼び続けているあの文章が浮かんでくるのだ。行かなければ、という気持ちと、行ってどうなるという気持ちが、胸の中で激しくせめぎ合っていた。もう、落語という趣味を捨ててしまえばいいことじゃないか?名乗り出ても何も解決はしないぞ?…いや、ちゃんと筋を通して向き合わねばならないだろう、あの貼り紙は俺を呼んでいるのだから…。振り子時計のように俺の心は激しく揺れていた。
 逡巡に逡巡を重ね、「行く」という決心がかろうじて勝ちを収めるには、週末までの時間を要した。梅雨晴れとなった土曜日の午後、俺は秋津市文化ホールの入口に再び立った。貼り紙は全く同じ場所に、同じ角度で貼られたままだった。相変わらずじっと黙ったまま、俺のことを待ち続けているように見える。来ました、と心の中で呟いてから、俺は玄関の扉を開けて中に入った。
 催しが開かれていないので、ホール内は閑散としている。あの独演会の日とは全く別の場所のようだ。壁には演奏会やダンス発表会のポスターが等間隔に貼ってあるが、賑やかなイベントがここで行われるようには思えなかった。空調の機械音だけが微かに響いている。冷たく静かな空間は文化ホールというより病院のようだ。俺は重大な病気を告知される前の患者のような気分で通路を歩いた。
 事務室にたどり着き、ガラス小窓から声を掛けると、緑のカーディガンを羽織った年配の女性がにこやかに顔を出した。
「何か御用でしょうか?」
 俺は出来るだけ落ち着いて、正確に要件を言おうとした…が、やはりつっかえてしまい、言葉は途切れ途切れになってしまう。
「あ…表の貼り紙のことですけど…あの…携帯電話を…鳴らしてしまった者で…」
 頭の中で何度も予行演習してきたが、喉が詰まった排水管のように、言葉を堰き止めてしまう。しかし事務員のおばさんは俺が言い終わらないうちに、甲高い声を上げて驚き、そして矢継ぎ早に話し始めた。
「まあ、そうなの!あなたがそうなの!まあ~良かった~。いえね、もうあれ剥がそうかと思っていたところだったのよ~。あ、ちょっと、ちょっとお待ち下さいね!」
 そう言うと転がるように事務室の中に走っていったので、俺はひとりで取り残された。一体これから何が起こるのだろうか。もっと真剣に俺のしくじりをなじられるかと思っていたのに。いや、なじって、責めてくれた方が良いと思っていた。弟子や関係者に連絡しているのだろうか?ならば、その人に土下座をしてもいいし、何なら殴られても良いと思った。それで俺が許されるのであれば。
 一分ほどで、女性が帰ってきた。白い封筒のようなものを手にしている。上品な和柄で装飾されており、それなりの厚みがあった。
「これをね、お預かりしていたから、はい、確かにお渡ししました。ご自宅でお読み下さいということです」
 渡された封筒には『携帯電話を鳴らされたお客様へ 天竺亭玉水』と記されていた。その字を見た瞬間、胸の内側を両手でぐっと掴まれるような衝撃が走るのを俺は感じた。
「いつまでも来てくれなかったらどうしようって思っていたのよ。これでようやく貼り紙を剥がせます。本当に良かった~」
 事務員の女性はまだ世間話をしてくれているのだが、もはや俺には聞き取れない。あろうことか、あの玉水師匠から俺へ向けての手紙ということで、もう頭がいっぱいだ。何も入る余地がない。
 俺は簡単にお礼を述べると、足早にホールを去って自宅へと向かう。来る時以上に非日常な気分で身体が震えていたが、街はあくまで穏やかな初夏の昼下がりだった。通りを行く人達の足取りは、久しぶりの晴れ間を楽しむようにゆっくりとしており、俺だけが特別な緊張感を持って早足で歩いていた。信号待ちの間、ベビーカーの中の赤ん坊が、不思議そうな顔で俺を眺めてくる。目が合うと、小さく笑った。ふと一瞬緊張がほぐれた俺は、気持ちをなだめるように小さく息を吐いた。

 自宅へ帰り着き、鞄から手紙を取り出した。封を開ける手がまだかすかに震えている。俺は玉水師匠からの手紙を一字一句身体に染み込ませるつもりで読んだ。師匠の字は思いのほかやわらかく、けれど揺るぎのない力がそこにあった。

『携帯電話を鳴らされたお客様へ

 あの日、『芝浜』のサゲ前に携帯電話が鳴りましたね。あなたがどんな思いでいらっしゃるかわかりませんが、私は怒っておりません。そのことをお伝えしたいと思い、手紙をしたためることにいたしました。まずは少々、昔話にお付き合い下さいませ。


 昭和三十五年頃のことです。演芸好きの母方の祖父の影響で、まだ幼いにも関わらず私は既に寄席が大好きでした。その日は父と一緒に外食をした後だったのですが、私は寄席に行きたいとせがみました。大好きな落語を、父にも聴かせてみたい、そういう気持ちがあったのでしょう。父は渋々私のおねだりを聞き、寄席の切符を二枚買ってくれました。


 既にお酒をたくさん飲んでいた父は早々に眠ってしまいましたが、私は次から次へと繰り出される演芸に夢中です。いよいよトリの出番。忘れもしない、先代の松葉家雲鶴師匠で、根多は『子別れ』でした。今でもはっきり覚えていますが、本当に良い高座でした。けれども、噺が夫婦の再会の場面にさしかかったその時です、いつの間にか目を覚ましていた隣の父が、やぶからぼうに、してはいけないことをしでかしたのです。

「しけた噺だなぁ」

 見事な人情噺に聴き惚れていた私を含む小屋の全員が凍り付きました。なにより、そんな野次を飛ばした愚か者の酔っ払いは、私がわざわざ連れてきた父なのです。私は恥ずかしさで気が狂わんばかりでした。

「まァ、静かにお聴きなさい」

 雲鶴師匠が穏やかなまなざしでそう言うと、父はふてくされたようして、また眠ってしまいました。普段は温厚だった父ですが、お酒を飲むとそういうこともあったのです。それが、いちばん悪いところで出てしまいました。雲鶴師匠が優しく流してくれたことだけが救いでした。


 その後、自分も何の因果か噺家の道を歩むことになったわけですが、あの日に噺を壊してしまったことをずっと悔やみました。だから、いつか私が噺を壊されることがあっても、腹を立てないでおこうと思っていたのです。幸いなことに大きな出来事は五十年の間ありませんでしたが、先日の『芝浜』のサゲ前の携帯電話は、なかなかにしてやられました。あなたも相当にお焦りになって、もしかしたら気に病んでおられるかもしれません。


 しかし、少なくとも私の中では、「ああ、やっと帳尻が合ったな」という気持ちでした。いったん噺は壊れましたが、それでも続けることができたのです。あの日の自分に、ちょっとだけ手を振ってやれた気がいたしました。


 もちろん、他のお客様に大変なご迷惑をかけたのは事実です。以後気をつけていただけたらと思います。ただ、私にとっては必然の巡り合わせであったと思っております。怒ってはおりません。そのことをお伝えしたく、筆をとった次第です。


 もしもあなたがこれから何かを極められたならば、誰かのしくじりを受け止めてやれる人になっていただけたらと思います。それがあなたにできる、いちばん誠実な「お詫び」だと思います。


十二月吉日
天竺亭玉水』

 手紙をそっと畳み、封筒の中へと戻した。胸の中で何かがゆっくりとほどけて、静かに降りて行く。ずっと握りしめていたものをようやく手放せたような、そんな感覚だった。師匠の落語が聴きたい、という思いが強く湧き上がり、俺は昔買ったCDを再生した。演目は『笠碁』だ。不器用な男二人が仲直りする噺を、師匠がしっとりと演じている。傘を被ったまま碁を打ってしまう男。盤面に滴り落ちる雨粒と、自分の涙が重なって見えた。窓から入る風が少し軽くなった気がする。もうすぐ、梅雨も明けるのだろう。

 暑さがようやく和らいだと思う間もなく、秋はすぐに駆け抜けていった。気付けば、コートの季節がすぐそこまで来ている。玉水師匠の手紙を読んでから、俺は図書館へ通うようになっていた。目的は毎月第二・第四土曜日に開催される「おはなし会」に参加するためだ。絵本などを小さな子どもに読み聞かせるボランティア活動なのだが、やってみるとこれがなかなか難しい。お話の内容をまずきちんと理解して自分なりの解釈をしておかねばならないし、登場人物になりきるための工夫、声の強弱や、聞き手の子ども達を惹き付ける動きも必要だ。しかし、難しいからこそ、やり甲斐がある。
 ボランティア仲間の女性からのアドバイスで、自分の声を録音して自分で聴いてみることにも挑戦した。
「自分の声って結構、意外な印象なんですよ」
 彼女は俺より少し若い保育士で、肩までの髪を一つにまとめ、子どもに話しかける時のように優しい口調で言った。エプロン姿がよく似合っている。読み聞かせの技術向上のためにボランティアを始めたらしい。提言に従って自分の声を録音して聴いてみると、それは他人の声としか思えない程に意外な音を発していた。
「自分で聴いてみて、気持ちの良いところとか、聞き取りづらいところを意識してみると上達しますよ」
 確かにこの練習は効果的だった。普段の生活では、自分の声を自分で聴く機会はほとんどない。しかし実際に聴いてみると、自分の言葉や口調を客観的に評価することが出来るようになってきた。

「ロジカルに詰めて、コンセンサス取っときゃ、フィードバックは拾えるからな」
 相変わらず小塚課長からは横文字を交えた叱責が飛ぶが、以前よりは口調が柔らかくなったように感じる。俺が「はい」「了解です」と適度に相槌を打ったり、「つまりこうですか?」と確認を返したり、そういうことが少しずつ出来るようになってきたからかもしれない。図書館の読み聞かせで、言葉の置き方や相手の反応に意識を向けるようになった。それが仕事の会話にも、ほんの少し効いてきた気がする。
「君、今日のレスポンスはナイスリカバリーだったな、まあ、ギリギリだったが、ロス最小化できたってところか」
「ありがとうございます。課長のジャッジメント、リスペクトしていますから」
 横文字で褒められて、横文字で返したのも初めてだった。多分、課長はちょっとだけ笑っていた。

 落語の楽しみ方に関しては確実に広がった。聴くだけだった自分が、話すことにも意識を向けたことで、師匠方がどんなふうに工夫し、伝わりやすくすることを目指しているのか、段々とわかるようになってきたのだ。さすがに聴き飽きたと思えるような噺にも、新たな面白さを発見することができたように思う。たとえば『時そば』。間の取り方ひとつで、全く印象が変わることに気付いた。それもこれも皆、玉水師匠のおかげだ。

 そして三ヶ月間、練習に練習を重ねて、俺はやっと子ども達の前で一つのお話を任されるまでになった。聴かせたい本を自分で選んで良いということなので、俺は迷わず一つの童話に決めた。なぜなら、この物語は俺にとって、語りたい理由がいくつも詰まっているからだ。

「今日のお話は、『ごんぎつね』です」
 子ども達が真剣に耳を傾けてくれる姿は嬉しいものだ。けれども、子ども達ならではのハプニングも読み聞かせにはつきものである。
「ごん、死ぬんだよ!」
 四歳くらいの男の子がお話の途中で大きな声を上げた。我慢していたが、抑えきれなくなったような様子だ。隣の少し年長の女の子が、責めるような目つきで人差し指を唇に当てた。
「さあ、それは、どうかなあ?」
 俺は焦らずに、じっと男の子の顔を見つめて言う。
「だって、ぼく、知ってるんだもん…」
 自分のせいでお話が止まってしまった事態にうろたえているのだろうか、男の子の声は小さくなっていた。俺は出来るだけ優しく、男の子に語りかけるように言った。
「良いお話は、何度聴いても、面白いよ」
 一呼吸置いた後、俺は笑顔で話を続けた。

〈了〉



【青乃家の一言】
第235回集英社オレンジ文庫短編小説新人賞に応募した小説です。入賞には届かなかったものの、「もう一歩の作品」に選んでいただきました。とても励みになります。ありがとうございました。