連載恋愛小説-「秘密」⑬
続きです
(2723文字)
いきなり投げつけられた大きな石は、高い水飛沫をあげ一気に水底に沈みこみ、泥や砂の中に入り込む。大きな石は僕の心をほとんど占めて冷たく重く固まって身動きが出来なくなる。水面では大きな空洞の後に波紋が出来ている。どうしょうか。僕は焦って息が浅くなる。
目覚まし時計が鳴る。
重い体を引きずって洗面所に向かう。
昨夜はいっちゃんの様子も気になって、明け方まで中々眠れなかった。いっちゃんが僕に会わないようにそっとシャワーを浴びに行ったり、キッチンに入る気配を、二階の自分の部屋から頭と聴覚だけを研ぎ澄まし追っていた。
なのに、また、いつものようにお味噌汁の匂いがキッチンに漂っている。
いっちゃん...... エプロンをつけたいっちゃんの後ろ姿が少し小さく見える。
「おはよう。」
いっちゃんの声はいつも通り透き通り明るくて、でも、お味噌汁をよそいながら、僕の顔を見ようとしない。
「......おはよう。いっちゃん、あの.....昨日の......」
「和さん、今日も十時には市場さんがいらっしゃるわよ。さっ、仕事、仕事。和先生。」
先生?ほんの少し胸がざわつき、違和感を覚えた。いっちゃんの目が一瞬赤く見えたのは気のせいだろうか。昨夜、泣いたに違いない......僕らはその日、淡々と過ごし、また、静かに夕食に向かっていた時、勝手口のブザーが鳴った。
「いっちゃん、僕が出るよ。」
ドアを開けるとトキオおじさんが、フルーツの入った袋だろうか、手に持ったまま緊張した面持ちで立っていた。
「おじさん!」
「ごめん!申し訳ない。」
おじさんはそう言って、これでもかというぐらい頭を下げ、その場で土下座をした。
「昨日は失礼なことをして本当に申し訳なかった。昨夜はどうかしてた。逸子さんには、もう二度とおかしな真似はしない。和樹......くんや逸子さんが真面目に生きていることも良くわかっている。この通り、申し訳ない。」っと言って、勝手口のたたきに頭を付けた。
「......トキオさん、頭あげて下さい。」
そう言ったのはいっちゃんだった。
「私はこちらに来てから、今までトキオさんにどれだけ助けてもらったかわかりません。感謝しています。.........今日のところはお引き取り下さい。」
っと、静かな声で言った。
トキオおじさんは持ってきたフルーツを床に置き、深く頭を下げすごすごと帰って行った。トキオおじさんは少し目に涙をこらえているようには見えたが、僕は釈然としないまま、憮然とした様子で立ち尽くしたままだった。
いっちゃんはくるりと向きを変え、テーブルについた。
「和さん、ご飯食べかけ、どうする?」っと、声をかけてきた。
僕はその問いには応えなかった。
「いっちゃん......これからどうするの?」
「どうするって?何が?」
「......あいつのことだよ。」
「あいつって......トキオおじさん?別に、何も変わらないわ。」
「変わらないって......。怖くないの?」
「おじさんはもうおかしなまねはしないわ。それに、私はもうおばさんよ。昨日はびっくりしたけれど、何てことないわ。」
「......おばさんなんて言うなよ。昨日、僕がいかなかったら、いっちゃんはどうなっていたか......」
「.そうね。そうだわ。.....はい。ごめんなさい。気をつけます。」
最後には少し神妙な顔をしてそう言い、何事もなかったかのように、いっちゃんは残りのご飯を食べかけた。
「よく、食べれる気になるね。」
僕は呆れたようにいっちゃんを見ていたが、そうだ、っと思い、ワインを二つのグラスに注ぎ、一つをいっちゃんの前に置いた。
「ねぇ。付き合ってよ。」っと、僕は言った。
「いいわよぉ。これって、和さんのう〜ん。腕っぷしの強さ?何に乾杯しょうか?」っと言って、ふふふっと笑った。
あなたっていう人は......大した人だ......
言葉にはせず、また、僕らは突き詰めることから逃げ、ずるい大人の顔をした。
それから一週間程経った頃、その日来られたクライアントの市場さんが雑談をしている時に、唐突に聞いてきた。
「ねぇ、先生。トキさんち、お店、ここ四日程、ずっと閉まってんだけど、何か知ってる?夜逃げじゃないかと言ってる人がいる。」
「えっ?まさか。風邪でもひいて家の中で寝ているんじゃないんですか?」
トキさんっていうのは、近所でのトキオおじさんの呼ばれ方だ。トキオおじさんは八百屋の二代目で、おじさんの父親は早くに亡くなり、母親と二人で切り盛りしてきた。その母親も三年程前に亡くなった。元気で愛想も良く、近所の要になっているお店だが、隣町に大型スーパーが出来て苦労しているとも聞いている。
僕もいっちゃんも、お互い話し合った訳ではないが、トキオおじさんの店の前を通ることは避けていた。僕らにはもう少し、時間が必要だった。
夜逃げ?まさか。それなら、そうなるとっくの前に、真っ先に僕に相談してくるんじゃないのか。それとも、いっちゃんのことと関係あるのか。
僕は日が沈んでから、トキオおじさんの店の前までやってきた。シャッターに張り紙はない。シャッターにも家の方にも鍵がかかり、家の中は真っ暗で闇に溶け込んでいる。新聞がポストからはみ出しているのが見えた。いつも店の前に停まっている軽トラだけが無い。僕は血の気が引くのを感じた。まさか。最悪のことも頭に浮かびながら、また、少し砂の中から顔を出そうしていた重い石がズブズブと潜り込み、体も心も冷たく震えてきた。
次の日、シャターには、弁護士からの受任通知の張り紙が貼り出されていた。
僕の胸には一点の黒いシミが落ちてきて、握った拳が解けない。
ふん。いい気味だ。ざまーみろ。
何て......思えない......そうか....そうか......
僕が小さかった頃、会えば、「和」っと掛けてくれる朗らかな声。父と楽しそうにお酒を酌み交わし語り合っていた大きな声。いっちゃんと嬉しそうに話していた笑顔。僕に殴られ僕を見上げた射るような目つき。情けなさそうに帰っていった背中......色んなおじさんが頭の中を駆け巡った。
おじさん......僕には相談出来なかった?頼りにならなかった?あの日はもう、切羽詰まっていた?
だから、最後にいっちゃんに会いたかった?どうにでもなれと思っていた?
でも、弁護士事務所に行けたんだよな。
人生、捨てなかったんだよな。
生きてるんだよな。
大らかな笑顔の裏であの人も秘密を抱えていたって訳だ。哀れだよな。馬鹿な人だと思いながら、何故だか、無性に悲しかった。
その夜から数日、いっちゃんは高熱を出して寝込んでしまった。
続く
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