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住まいを決めた理由は、ワインをおいしく飲みたいから。

——と書くと、なんだかお洒落でスタイリッシュな人を想像されるかもしれない。
けれど、実際はスタイリッシュというよりスッタモンダなタイプだし、ワインは大好きだけど、造詣が深いわけでもない。

私のワイン選びはいたってシンプル。
ボトルやラベルのデザインをなんとなく眺めて、産地をなんとなく確認して、お店の人におすすめを聞いて、「おいしそうだな」と思ったら買う。……それだけ。

駅から徒歩15分。築30年以上の2階の角部屋

20代後半、私はJR山手線「大崎駅」と東急池上線「戸越銀座駅」のちょうど中間あたりに位置する、ちいさなアパートに住んでいた。

どちらの駅からも、坂をのぼって徒歩15分。

決して駅近ではないけれど、都会のなかにぽつんと取り残されたような、静かで穏やかな住宅街だった。

背の高いマンションや大きな施設はなく、昔ながらの一戸建てやお寺、小学校、私が住んでいたような集合住宅が並んでいる。

見上げれば、空が広い。
それだけで、ふっと呼吸が深くなる場所だった。

アパートの1階には大家さん一家が住んでいて、同じ敷地内の外階段をカンカンとのぼってすぐの2階の角部屋が、私のちいさな城だった。

築30年以上の1DK。
設備はそれなりに古いけれど、バス・トイレが別なのはかなりの高得点だ。

大家さんが飼っている元気なシベリアン・ハスキーくんが、
毎朝5時を過ぎると「うぉぉおおん!」と大はしゃぎで庭を駆け回り、その声でたたき起こされること以外は、なかなか快適な暮らしだった。

店主とおしゃべりして、ワインを1本買って帰る

当時の私の食事は、ほぼワインとチーズがメインだった。

戸越銀座の商店街でホカホカの肉まんを買ってきても、
揚げたてのメンチカツを買ってきても、
タレが抜群においしい焼き鳥を買ってきても、
ワインとチーズとともに味わうのが私流。

もちろん、ときどきパスタをゆでたり、肉や野菜を炒めたり、料理らしきものを作ることもあるけれど、そのときもやっぱりワインとチーズは欠かせなかった。

この住まいのすごいところ――それは、
駅から家に帰る道中に、なんと3軒も酒屋さんがあったことだ。

どのお店にも、いい雰囲気の店主がいて、いい感じにワインを揃えていた。

仕事を終えた帰り道、3軒のうちどこかにふらりと寄って、店主と少しおしゃべりをして、ワインを1本選ぶ。
それが私の日課だった。

ん? なぜ3軒の酒屋さんにそんなにこだわるのかって? 

そこはやっぱり、20代後半だった私にとって、いくらワインが大好きでも、毎日同じお店で買って帰るのは、なんだか「のんべえ」のレッテルを貼られそうで恥ずかしかったからだ。(いや、完全にのんべえなのだが)

「あ、またこの人来た」
「ワイン、飲み過ぎなんじゃない?」

そんなふうに思われるのが、なんとなく気まずいというか。じつは小心者なのである。

でも、3軒あれば日替わりでお店を選べる。
今日はこっち、明日はあっち……とローテーションを組んでおけば、それぞれのお店には3日に1回くらいしか行かないことになる。
完璧な作戦だ。(そもそも3日に1回酒屋に通うのもどうかと思うが)

とにかく、この3軒の酒屋が近くにあることが、この住まいを決めた最大の理由だった。

恋愛がうまくいかない日も。
友人の訃報を聞いた日も。

実際に住んでいたのは2年ほどだったけれど、ワインを飲むたびに、いまだにあの部屋のことを思い出す。

それくらい、ワインとともに濃厚な日々を過ごしていたのだろう。

友人に誘われた合コンで「素敵だな」と思った人がいた。
向こうも気にしてくれているような気がして、ちょっと浮かれていた。
けれどしばらくして、一緒に合コンに参加した友人とその人が付き合っていることを知った。そんな夜のワインの味は、少し切なかった。

仕事でお客様に理不尽なことを言われて、思わず「それはおかしいです」と口にしてしまった日。あとで上司に大目玉をくらった。
帰り道、駅からの坂をのぼりながら「でも、おかしいものはおかしいんだけどな」とブツブツつぶやきながら、酒屋のドアを開けたこともあった。

弟が難関の資格試験に挑戦して、惜しくも桜が散った日。
頑張ってきた姿を知っているから、自分のことのように悔しくて、ひとりでむせび泣きしながら飲んだワインもあった。

小学校からの友人が、病気で亡くなったと知らされたとき。
一緒に過ごした日々を、ひとつひとつ思い出しながら、ゆっくり、ゆっくりグラスを傾けた。
あの夜は、1本のワインがなかなか空にならなかった。
飲み干してしまったら、彼女が遠くへ行ってしまうような気がしたのかもしれない。

記者として所属していた編集部の飲み会で、限界を超えて飲みすぎてしまったことがある。
渋谷駅前の道路で意識を失って転がっていた私を、やさしい同期のM美がタクシーに乗せて家まで送り届けてくれたらしい。
翌朝、部屋のすみっこで横になって寝ていたM美に平謝りした。
「この部屋で何度も一緒にワインを飲んだから、住所も道順もちゃんとわかったよ」と笑うM美。あなたは命の恩人だ。

うれしい日も、切ない日も、どうしようもない日も。
あのちいさな1DKで、ワインとともに愛おしい時間を過ごしてきた。

「足で書け」という編集長のことばを思い出し、未知の現場へ

あの1DKを出てから、長い年月が流れた。

私も少しは成長して、荷物も思い出もしがらみも増え、1LDKとか2LDKくらいの住まいを探すようになった。

東京出身ではない私には、長く住んでいるわりに、知らない街がたくさんある。降りたことのない駅、名前は知っていても馴染みのない土地。
次の暮らしの舞台をどこにしようかと考えるうちに、住んでみたい街や物件はどんどん増えていった。

「いいな」と感じる物件のなかで、実際に住めるのはひとつだけ。
さあ、どうやって決めようか。

次の休日、最寄り駅から候補の物件まで、ゆっくり歩いてみることにした。
記者としていつも編集長から「足で書け」と言われていたように、実際の空気感は現場に行かなければわからない。

ある物件に向かって歩きはじめたとき、ふと目に入ったものがあった。

駅前の路地にある、小さくてこぢんまりとした酒屋さん。
頭にバンダナを巻いた40代くらいの女性スタッフが、店内でお客さんと楽しそうに話している。
その姿がなんだか素敵で、居心地のよさそうなお店だった。

また少し歩いたところに、二軒目の酒屋さんがあった。
こちらは日本酒にこだわっていそうな和の趣きのある外観。
お客さんが出入りするたびに、扉につけた鈴がリリンと柔らかい音を響かせている。

そして、物件のすぐそばには、三軒目の酒屋さんが。
店頭には、温もりのある手書きPOPとともに、木箱に入ったワインがいい表情で並んでいた。

――それを見た瞬間、胸のなかで、なにかがカチッとはまった。

「ここにします」

思わずそうつぶやいた私に、一緒にいた不動産屋さんは、
「まだマンションの中を見てもいないのに?」と、少し驚いた顔をした。

内見の帰り道、さっきの酒屋さんにさっそく立ち寄ったのは、言うまでもない。


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