掌編|ただ、それだけ|シロクマ文芸部
紅葉色のそれだけを小皿に盛って、父の前に置いた。父からは、「おう」と一言、そのあとに続く言葉はない。無口、とは違う。普段の父は堅物ではないから。柔和とは言えないけれど、男手一つでわたしを育てた。わたしとの距離の図り方は職人レベルに達している。その父が、今日は会話をしようとしない。わたしから視線を逸らすように、見るともなしに野球の中継を映すテレビに体を向けて、静かにビールを飲んでいる。
父は、そのうちわたしから話し始めることをわかっているのだろう。だけど、父だってわたしに話したいことはあるはずだ。それなのに頑なに口を開くことを拒んでいるのは、きっと言葉と一緒に望まないかたちで感情が溢れてしまうことが怖いのだと思う。そんな父の臆病さはわたしにも伝染している。
父が残したピーナッツを弄ぶようにして、時々は口に運ぶ。「柿ピー」と呼ぶくらいだから、本当は一緒に食べたほうが美味しいのかもしれない。でも、父はピーナッツを食べない。絶対に食べない。そしてわたしはピーナッツを食べる。それが、子どもの頃からのわたしの役目だった。
父がかりかりしたほうを食べて、わたしがそれ以外を食べる。今日に至るまでの父とわたし、二人の生活は、柿ピーを分け合うときのように何でも分担して成り立っていた。だけど、明日からのわたしは、父ではない人と生きていく。
「ねえ、おとうさん」
飴玉を舐めるようにピーナッツを口に含んだまま、わたしは父に、どうして母と結婚したのかを尋ねた。
ん、と言ったのか小さな咳をしたのか、わからないけれど、父が何か言おうと準備をしていることは伝わった。わたしは新しいビールの缶を取りに台所へ立った。その背中に、「お前を妊娠したからだよ」と父は言った。
「やっぱり。そうなんだ」
「なんで。知ってたような言い方して」
「だってさ。あのとき。ほら、わたしがおとうさんに報告したとき……」
父は笑ったのだ。あのとき、とても微かに。
「結婚前の一人娘から妊娠報告受けて、あんなに穏やかに微笑む父親っていなくない? しかも片親でさ」
べつに、と言葉を切った父は、やっぱりゆるく微笑んでいる。
「わるいことじゃないだろ」
「そうだけど」
父に打ち明けるのが怖くて、胃が痛くなるほど悩んだわたしの苦労はなんだったのかというくらい、父はあっけらかんとして、恋人との結婚も妊娠も祝福してくれた。
「おとうさん、これから絶対さみしいでしょ」
父は、ふっと鼻から息をもらし、笑った。
「なんか強がってるっぽいけど、わたしがいなかったら相当さみしいと思うよ。それに柿ピーだってもう食べられなくなるんだし」
ばかやろ、と言って、また。父は笑った。そんなふうに力なく笑うくらいなら笑わなきゃいいのに。たまには泣いてみたらいいのに。わたしが、ひどく涙もろい人をパートナーに選んだのは、父が泣かなすぎることへの反動かもしれない。
「お前はさ、世間知らずだから。これからうんと苦労するからな。今からチャットGPTにでも課金して備えとけよ」
父はつまらない冗談を言うと立ち上がり、こちらに向かってきて、冷蔵庫の前で立ち尽くすわたしの横をすり抜けて行った。そして、ガスコンロ下の戸棚を開けてなにか取り出そうとしている。
「なに探してんの?」
近づいて尋ねても父は答えない。しゃがんだまま、戸棚から取り出したスーパーの袋を覗いている。
「お前さ、わからないことは何でも、まずは旦那に訊くんだよ。それでもわからなかったらチャットGPTに訊くんだ。AIにばっかり話しかけて、さみしい夫婦になるなよ」
父は立ち上がり振り向くと、突然わたしの腕に菓子の袋を押し付けてきた。
「なにこれ……は?」
驚いて、それから笑った。それは、紅葉色のかりかりしたそれだけが詰められた商品だった。表面に、「柿の種、ピーナッツなし」と書いてある。
「なにこれ、すご。こんなの売ってんだ」
「そうだよ。だから、おれは大丈夫なんだよ」
父はそれを持って、再びテレビの前に戻った。
「ピーナッツなし……かあ」
わざと、父に聞こえるように言った。涙が滲んだ。父はこちらを見ずに、
「なあ。もう一本、ビールちょうだいよ」と言った。
二ヶ月ぶりに参加します。
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