短編小説|愛してるのワルツ【前編】
突然、メガネを外された。嘘みたいに明るいコンビニから出てきたばかりで事態が飲み込めない。
待ち合わせに指定されたコンビニにはキラ子よりも先に着いた。あたたかいものを飲みたいとメッセージを送ってきたキラ子のために、二人分のコーヒーを買ったところだった。
キラ子がおれの眼鏡のつるを丁寧に折りたたみ、バッグにしまう様子を眺めながら、
「もしかして、眼鏡を奪うためにおれにコーヒー買わせた?」と尋ねた。
両手にコーヒーカップを持って呆然としているおれに、「違うよ」と笑うキラ子は、顔のパーツがぼやけてのっぺらぼうに見える。
黒髪のショートカットにグレーのパーカー、ブルージーンズに白いパンプスをあわせている。こうして細部をぼかしてその外見を見てみると、キラ子は背丈からして小学校高学年の男児みたいだ。
「ゆうても王ちゃん、そんなに目ぇ悪くないでしょ」
キラ子が言う。
「いやいや、悪いから。おれ普段、ぜったい眼鏡外さないじゃん。寝る直前でしょ、外すってなったら。目ぇ見えないのやなんだよ。わかるっしょ、自分だって眼鏡かけてんだから」
おれにとっての眼鏡の存在を熱弁したところで、キラ子からは少しの共感もない。ふーん、となんの抵抗も感じない様子で自分も眼鏡を外すと、腕にかけている小さなバッグにそれをしまった。
「そこ入れんの? おれのと一緒にしたらレンズ傷つかない? 眼鏡同士がぶつかっちゃって」
「眼鏡同士がぶつかって傷つけ合うって、まるで王ちゃんとあたしみたいだね」
うまいこと言うねと言いかけて、これが嫌味であることにちゃんと気づけたから黙った。
キラ子とおれが互いに頑なな心で接触するとき、それはまるでグラインダーで金属を切断しようとするときのように火花が散る。ちっ、ちっ、と表面に傷をつけては火花を散らし、すぐに離れて、また火花恋しさに、あるいは適度に痛みを欲しているのか、どちらともなく近づいていく。そんなことを繰り返している。
「王ちゃんの視力はいくつですか」
キラ子はコーヒーを受け取るとそう訊いた。おれはようやく自由になった右手で、普段なら眼鏡がある辺りの皮膚に触れながら、
「0.1以下で、乱視強め」と言った。
なら、あたしと一緒だ、とキラ子はコーヒーをすすった。熱かったのか肩をすくめている。
「あたしの顔、見える?」
おれはその場からじっとキラ子を見つめた。
「見えるようで見えない」
そう答えると、キラ子はなぜだかほっとしたようで、
「よかった。じゃ、散歩しよう。見せたいものがあるから」と言った。
見せたいものがあるのに眼鏡を外したというのか。謎だ。キラ子の行動の真意がわからない。
右手にコーヒーを持ち、左手はおれの右手に指を絡ませるとキラ子は歩き出した。
二週間ぶりに繋いだキラ子の手は一回り小さくなったように思う。久々に会うということが、キラ子に出会ってからのこの五年の間にほとんどなかった。おれたちは三日と離れたことがない。
いったい、キラ子はどこを悪くしていたのだろう。ただの風邪だったり、流行り物にかかったならそう言うだろうが、キラ子は黙っている。触れられたくない事情があるのかもしれなかった。こんなことは初めてのことだからむやみに話題にできない。
キラ子の家から五分以内のコンビニから、家とは逆方向に歩く。ひたすら住宅街が続く道の歩道は広く、二人が並んで歩いてもまだ余裕があった。
おれは乱視がきついからなのか、眼鏡を外していると少しだけ自分の身体が左に傾いている気がした。平衡感覚に違和感がある。それでも、物がはっきり見えない暗さだから少しはましな気もする。キラ子はどうだろう。もしかしたら傾いているかもしれない様子を正面から見てみたい気もしたけれど、今手を離すとつなぎ直してくれる保証はないからこのままでいようと思った。
「王ちゃん、ちゃんと見てる?」
突然、キラ子が言った。
何を?
光だよ。
ヒカリ?
そう。街灯とか、マンションの廊下の電気とか、一軒家の軒先の照明とか。
見ているかと言われると、意識してはいなかった。それよりもキラ子の手の感触に集中していたから、やっぱり、見ていなかったのだ。
改めて街灯を見れば眩しい。光が滲んで輪を作っていた。
「ハロが見える」とおれは言った。
「ハロ?」
「ハロー現象。光の周りがぼんやりして、リングが見えたり」
輪郭が曖昧な世界は、まるで夢の中みたいだ。
しばらく歩いていると、道の先に青緑色の花火が上がった。
「え」と思わず声を漏らしたおれに、「ね?」とキラ子が微笑む。
「うそやん」
そんなはずはない。秋も深まって、そろそろコートが必要かという時期だ。そこに青緑色の花火が三つ。ぱ、ぱ、ぱ、ぱ、と点滅している。そのうち、中央の一つが黄色に変わり、次には三つが同時に赤い花火に変わった。
小学生が描く花火のような、いや、それよりも雪の結晶に似た形だった。
「見せたかったのって、これ? 信号、めっちゃきれい」
おれが本心からそう思っていることが伝わったらしく、キラ子は満足そうに、
「でしょう? やばいでしょう」と言った。
「眼鏡とるだけでこんなふうに見えるんだ。これやばい。写真撮りたい」
繋いでいる手を離したくはないけれど、今キラ子と見ているこの景色をカメラに収めたくなった。するとキラ子は冷静に、
「カメラで撮ったところで、今うちらが見ているようには写らないよ」と言った。
数秒後、キラ子の言っている意味をようやく理解したおれは、恥ずかしさから馬鹿みたいに笑った。
キラ子とおれは更に先へ進んで、今度は店の看板を見つけた。ぼんやりした世界にだいぶ慣れてきたとはいえ、文字に関してはお手上げだった。
「あれ、なんの看板だろうな。色てきに焼肉屋ぽいけど」とおれが言うと、
「そうかも。たしかあの辺に『焼肉七輪』あったと思う」とキラ子が答える。
「あれは100パーわかる。吉野家」
「だね」
なんとなく見覚えのある看板を言い当てる。そのゲームに、おれもキラ子も夢中になった。
「月乃珈琲だよね、あれ。『珈琲』って字、やばくない? なんかの虫に見える」
キラ子が言うように、眼鏡なしで見る『珈琲』という漢字は、足がたくさん生えている虫みたいだ。虫嫌いのキラ子は、やだやだ言いながらおれの手を強く握った。
「あれはわかりやすいね。マック」
「うん、あれは唯一無二。マック」
黄色いMはぼやけた世界でも堂々としている。
大通りに出るとおれたちは一度足を止め、その世界の眩さに見とれた。車の往来は赤と白の光のオンパレードだ。
「LEDってすごいんだな」
初めてそう思った。LEDが主流になってどれだけ経ってんだ。
歩道脇に並んでいる当たりが出るタイプの自動販売機は、夏祭りの夜に子どもに持たせるおもちゃのように、色とりどりに点滅していて楽しい。
駅に近づくと背の高いビルが密集していて、その一帯だけが目を細めたくなるくらい発光していて明るい。遠くから眺めるとまるでディズニーランドのイッツァスモールワールドの館みたいだ。
「これだけきれいだからさ、もうわざわざイルミネーション見に行く必要ないね」
おれがそう言った瞬間、キラ子と繋いでいる手の中で冷たい火花が散った。
「これはこれ、それはそれだよ」
キラ子は、使い分ける声色の中でも一番低い音で、
「似ているからって同じではないよ」と言った。
そんなのはわかっているんだけど。こうやって、わかっていることをいちいち諭してくるところはキラ子の良くないところだ。
「似ているからってなんとなく一纏めにしようとするところ、王ちゃんの悪いところだよ」
おれは言わなかったのに。キラ子は堂々と指摘してくる。
「同棲しようって話だったのに、あたしの家に週の半分住み着くことで、いつの間にかなかったことにしてるのもそう」
ああ、それ。
やっぱし不満に思ってたんだ。
それならそうと言ってくれればよかったのに。
キラ子がため息をついた。それは呆れたときに出るため息ではなく、憤る気持ちを少しでも鎮めようとする、不満たっぷりの吐息だった。
どうやらおれは何かのトリガーを引いてしまったらしい。
「ごめん、やっぱ眼鏡かけていい?」
心細くなったおれは、眼鏡を恋しく思った。
「駄目です。まだ話の途中だから」
「話すならちゃんと顔が見えたほうがいいよ」
「顔ならこの五年間ずっと見てたよね。今日はあえて見えなくしてるの。このままのほうがあたしが話しやすいから」
キラ子の言葉尻でまたしても小さく火花が散った。もしもキラ子が猫だったら、きっと全身の毛を逆立てておれを威嚇している。
こうなってしまったらキラ子の好きにさせたほうがいいことは経験から学んできた。キラ子は今、体調が万全ではないから刺々しくなってしまっている可能性はある。こういうとき、おれにできることは辛抱強くキラ子の話に耳を傾ける、それだけだ。
「言いたいことがあるなら、なんでも言ってください」
おれは無抵抗であることを示し、謙虚さを差し出す。それから恐る恐る、というふうを装い、できればもう一度静かな住宅街の道に戻るのはどうだろう、と提案をした。キラ子は素直におれの提案を受け入れた。
再び閑静な住宅街の歩道に戻ると、キラ子は一度大きく息を吸い、
「二週間前……」と切り出した。
おれは頭の中にスケジュール帳を呼び出し、過ぎ去った過去のページを開く。
ちょうど二週間前。金曜日の夜だ。
おれはいつものようにキラ子の家に向っていた。するとそこへキラ子から着信があり、出てみると体調が悪いと言う。それなら夕飯はどうしようか、何なら食べられそうか、などと訊くと、「そういうことじゃないです」と返ってきた。どういうことか尋ねると、具合が悪いから家にこないでほしいと言う。おれとしては具合が悪いからこそ側にいるべきだと思ったけれど、キラ子は、看病してもらうほど重症じゃないから、と言った。納得はしなかったけれど、病人相手に長電話もいけないと思いこのときは引き下がった。翌日の夜にはメッセージが届いて、「安静にしたいからしばらくは家にはこないでほしい」と告げられた。
こうして二週間会えなかった。この間おれたちは、「おはよう」や「おやすみ」程度のメッセージのやりとりしかしなかった。
そして今日、二週間ぶりに会うなり、おれはキラ子に眼鏡を奪われた。
「二週間前。正式には十三日前の土曜日。あたしは手術を受けました」
キラ子がそう言ったとき、バイクが一台、前方からやってきた。おれはそのヘッドライトを直視してしまった。
バイクが通り過ぎたあとの暗闇には、大きな雪の結晶の残像が浮かんでいた。これはおれだけに見えるものだろうか、それとも、キラ子も同じようにこの結晶を見ているのだろうか。
手術って、なんの手術?
掻爬手術。
ソウ、ハ?
聞いたことないよね。じつはあたしも初めて聞いた。
キラ子は俯いている。キラ子が右手に握ったままのコーヒーが重そうで、おれは飲み終えた自分のカップを無理やりジーパンの後ろポケットにねじ込み、代わりにキラ子のコーヒーカップを持ってやった。中身はほとんど減っていなかった。
「掻爬手術ってね。スプーンみたいな器具をつかって、子宮の中のものを掻き出す、そういう手術のこと」
キラ子は空を指差すように右手の人差し指を伸ばした。その指先を、お辞儀させるように何度か曲げては伸ばし、また曲げては伸ばした。
「勝手なイメージだけど」と言葉を添えて、何かをひっかくような仕草を繰り返す。
おれは、キラ子が話してくれたことを頭の中で繰り返した。
〝キラ子は十三日前の土曜日、一人でどこかの病院へ行ってソウハ手術を受けた。スプーンのような器具を使って、子宮の中のものを掻き出した〟
キラ子は、おれに「しばらくは家にこないで」とメッセージを送ってきたときには既に手術を終えていて、一人術後の体で、術後の心で、いつもおれたちが体のどこかを密着させないと寝られないくらいの狭いシングルサイズのベッドの上で、寝入ったあといつでもそうするように体を丸めていたということなのか。
「間違えないでほしいのは、あたしがそうしたいからそうしたんじゃなくて、そうせざるを得なかったってこと」
これは、「何を掻き出したの?」というおれからの不躾な質問に対するキラ子の答えだ。
「いつ王ちゃんに言おうか悩んでたの。そうしたら、言う前にだめになっちゃった」
何を質問しても、キラ子の答えたい形でしか言葉は返ってこない。キラ子はまるで、見えない誰かに説明するみたいに話していた。
「あたし、王ちゃんの子どもを妊娠してたんだよ」
街灯の下、キラ子は舞台の上でスポットライトに照らされた俳優のように、はっきりとそう言った。
暗転、場面転換。
そうなってほしいと都合よく願ってしまったおれの気持ちに、どうかキラ子が気が付きませんように。
「よくあることって言われたよ。子どもを妊娠したら、六人に一人は経験することだから気にするなって言われたの。だから、気にして二週間も寝込んだあたしはよっぽど精神が弱くて、知識不足で。こんなんだから親になる資格がなかったんだって思った」
キラ子はいつもより早口だった。
「それ言ったの、誰だと思う? 職場の上司。男だよ。〝よくあること〟って、おまえが言うなって。絶対に経験しないおまえに、なんで〝よくあること〟なんて簡単に片付けられないといけないの。自分の奥さんが妊娠してだめになったときにもそうやって言う? 他人にだから言えんだよね。どうでもいい人間に対してだから、そんな冷たいこと言えるんだよ。あたしの体に起こった大きな……ほんとうに重大なことを、勝手な価値基準で小さいことにしないでよ!」
グラインダーは既に高速回転を開始していて、キラ子の言葉をかき消す勢いで轟音を響かせている。その音はどんどん、大きくなる。不快な高周波音だ。耳を塞ぎたくてたまらない。
「だけど、そいつはまだまし………もね! 腫れ物に……うに離れて行ったやつとかいるし、ボスは………たと思う? 馬鹿だねって、そう言ったん………は息子が二人もいんの! それって、奥さ………めて産休取って育休取ったお………自分は何も変化しない……生ませといて、まるで人間が大き…………顔してさ!」
グラインダーのディスクが外れそうだ。がたがた不吉な音を立てている。このままだと危ない。キラ子が危ない。だけど、どうしたらいいんだ。おれは、どうしたら───。
「手術を受ける一週間前だよ。妊娠検査薬買って試してみたら、一瞬で二本線が出たの。王ちゃん、あたしが言ってる意味わかる? 妊娠検査薬って、おしっこかけるの。かけたら一分待つと結果がわかるって書いてあるの。だけどね、かけた瞬間、はっきり線が出たの」
ピンクの二本線。
おれは想像した。便座に腰掛け股を開いたキラ子が検査薬の先端に尿をかけて、かけた瞬間あらわれたピンクの二本線を見て、驚いている。それはもう、あんぐり口を開けて。なんなら、その開けた口をもう片方の手で塞がなくてはならないほどの衝撃を味わったのではないだろうか。
「どうして」
おれの口から無意識にこの一言がこぼれた。キラ子の聞き役に徹するつもりでいたのに。おれのほうこそ、口を塞ぐ必要がある。
「どうしてって? どうして、王ちゃんに話さなかったのかってこと? 聞きたいのはそれ? じゃあ言うけどさ。あたしからいなくなっちゃったものの話をすぐに言う必要あった? あたしだって気持ちの整理がついてないのに、そんなにすぐに打ち明ける必要があった? 言ったところでさ、王ちゃんはなにもできないじゃん。あたしだって何もできないのに、王ちゃんなんてその何倍も無力じゃん。そりゃあ、いつかは話そうと思ってたよ。大事なことだもん。だから今、こうやって話してるんじゃん」
キラ子は顔を上げておれを見つめている。いや、睨みつけているのかもしれない。キラ子がのっぺらぼうに見えるなんて言ったけどそれはさすがに大げさだ。本当はおれの視力であればなんとなくは見えていて、どれだけキラ子が表情を歪ませているかもわかっている。キラ子は苦しそうだ。そんなキラ子を見ていることはおれだって苦しい。
どうして、ともう一度言いそうになって、言葉を飲み込むとともに思い切りつばを飲んだ。ごくっという嚥下音が響くと、キラ子が目を丸くした。
「どうして、キラ子は妊娠したんだろう」
後編へつづく
