哲学×バント
4作目にして、ふざけてみる。
『哲学×野球のバント』
いや、どこに哲学要素あんねーん!( '-' )ノ)`-' )ぺし
……ごもっともである。
今まで、「幸せ」や「夢」、「お金」というテーマでやってきて、それっぽかった。
だが、哲学には無限の可能性がある!!
と思っている。
「バントすら、哲学から学べるのでは?」
ということでやっていこう!
そもそも『バント』とは?
野球を知らない人が居ると仮定して、まずはバントの簡単な説明からだ。
バントとは……そもそも、ボールを打つ気は無い!
バットに球を軽く当てて、目の前に弱く転がす。それだけだ。
何のためにやるかって?ランナーを1塁から2塁へ進めるためだ!その為に、自分がアウトになって犠牲になる。
だから、「犠打」という言葉でも表される。
チームのために犠牲になるんだ!!
かっこいいだろ?
1.マルティン・ハイデガー
1人目は、ハイデガーくんです。
『世界内存在』これは、彼が唱えた人間に対する考えです。
簡単に言えば、人間とは世界と常に繋がって生きている。ということです。今回でいえば、チームという世界とも捉えることができます。
それに、彼には「気遣い」という取っておきの言葉があります。
「気遣い」とは?
簡単に言えば、「未来にある可能性のために、今の自分を犠牲にし続けてる。」という事だ!
前提として、「死に向かう存在だけど……」という言葉があるがな!
チームの勝利や、得点の為に、ヒットを打てる確率がある打席をひとつ犠牲にするという部分。
まさに、気遣いであろう!!
ここで一旦戻りまして、世界内存在。
チームという世界の中で、自分の欲(ヒットを打ちたい)を抑えて、チームの勝利や得点のために「犠牲」になる。
これは、自分という存在が単なる個人ではなく、世界の一部として位置づけられ、その中で仕事を全うしようという「本来性」の現れと解釈できるわけです!!
※本来性とは、己の唯一無二性のことである。
さて、ここまで見てきたように、ハイデガーにとってバントは「気遣い」の現れであり、同時に「本来性」への接近でもある。
打たないという選択は、単なる自己犠牲ではなく、“未来の可能性”に自らを投げ出すという、人間の存在構造そのものだ。
バントは意外にも本能的で、そしてひょっとすると、それは人間に与えられた小さな責務なのかもしれない。
2.エマニュエル・レヴィナス
哲学×バント。セカンド走者は、レヴィナスだ!!
ハイデガーと、少し似ている部分もある。
「他者は、自分の世界を超えてくる存在」
バントで簡単に、例えてみる。
監督の"顔"を見た時に、その監督がランナーを進めたいと思った!
そのとき僕は、バントせざるを得ない状況になった。
ということである。
※サインは、「自由にやれ!」だった場合と仮定する
起こってること↓
僕には打てる可能性がある、だけど
バンドをして欲しい、監督の顔が見えた、だから
僕は"責任"を感じてしまった、よって
顔を見ただけで、自己的にバントをした
直感的に、そうか?と思う部分もあるが……
まぁ、納得する部分もある。
顔というか、他人やその場の雰囲気を掴んで行動することあるだろう。そーゆーことだ
レヴィナスによれば、バントは……
監督や、ノーアウトで1塁に走者がいたからではなく、その存在に自分が"気づいてしまった"から起こる、「倫理的行為」である。
ということらしい。
( ・∇・)💭サインもあるけどね
3.ジモーヌ・ヴェイユ
ホームに帰る前に、最後に腕を回すサードコーチャーは、ヴェイユだ!!
レヴィナスが、「他者の顔」による行為なら──
ヴェイユは、「自分の力を、"無にする"」事によって引き起こる事象と言えます。
ヴェイユにとって、「力」とはカタカナの「カ」ではなく、「人を物に変える」ことが出来る事である。
よって、自分にとって、最も強い存在は、力を行使しない者である。
では、バントで見てみよう。
大前提、打者には打てる「可能性」と「力」がある。だが、その打者は、その「力」はあえて使わない。
それは、走者やチームのために、「自らの力を"無"にしている」と言える。
ヴェイユによれば、バントは「力の放棄」によって成立する沈黙の倫理である。
打てるのに打たなかった──それは、力があることを自覚している者だけに可能な抵抗だ。
バントとは、自らを“物”にせず、他者を“物”にもしない、最後の自由かもしれない。
( ・∇・)💭『力」って文字、見すぎてゲシュタルト崩壊してきた笑
おわりに
ここまで、読んでくれてありがとう🐱
意外と、バントは哲学だった事が分かったね!
自己と、他者の関係性。
自分の打てる「力」や「可能性」を捨てて、やる事。
『バントとは、優しさであり、本能であり、責務であり、倫理であり、自由でもある』
