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👱‍♂️「ちゃんとお礼ば言いなさい!」父に叱られた。〜6月21日父の日に向けて〜

大正五年生まれの父は、
激動の時代を生き抜いた人だった。

若い頃
第二次世界大戦の戦地へ赴き、
傷痍(しょうい)軍人となって
帰ってきた父の肘には、
鉄砲で撃たれた生々しい傷跡があった。

その傷のせいで、
小指と薬指が
少し曲がったままになっていた。

私の娘、
つまり父にとっては孫娘が、
今でも懐かしそうに言う。

「佐世保のおじいちゃん、
私達が熊本から行った時、
いつも私に鉄砲の傷跡ば
見せよらしたとば、覚えとる」

それは父にとって、
過酷な戦場を生き延びた、
勲章のようなものだったのかもしれない。

鉄砲の弾が違うところに
当たっていたとしたら、
この世に私は存在しない。

戦時中、父と母は結婚した。
結婚式当日が初対面、
そんな時代だった。

「男の人はほとんど戦争に行って、
残っとらんやったもんね」

と、母は後年、
笑いながら振り返っていた。

そんな二人は、子宝に恵まれ、
実に七人もの子どもをもうけた。
私は末子、その時父は45歳。

けれど、最初に生まれた長男を
わずか五歳で亡くして以来、
その後に生まれてくるのは女の子ばかり。

新しい命が誕生するたびに、
父は「またメスか」と、
今なら大問題になりそうな、
ひどい言葉を吐き捨てたらしい。

母はその言葉を、
生涯ずうっと根に持っていた。

そんな、いかにも昔気質で頑固で、
少し口の悪い父だったけれど、
本当は私たちのことが
可愛くて仕方がなかったと思う。

私の子供たちが小さかった頃、
私の手作りの子供服が、全国誌に
2ページにわたって掲載されたことがあった。

すると父は、すぐに書店へ行って
その雑誌を何冊も買い込み、
自分の知り合いだけでなく、
私の、幼馴染みのルミちゃんにまで
その雑誌を持って行って
渡していたらしい。

後日、そのルミちゃんから
「艶子のお父さん、雑誌ば私にも
持ってきてやらしたさ〜
ものすご喜びよらしたけん⤴︎」

と連絡をもらい、
「お父さん、可愛か」
と思わず笑ってしまった。

また、父が一度だけ
熊本に遊びに来てくれたときがあった。

私が案内役として
熊本城へ連れて行ったのだが、
なぜか私よりも父の方が
お城のことにやたらと詳しく、
「武者返し」の石垣の構造などを
熱っぽく解説してくれた。

自分の親ながら、
その博学ぶりには圧倒された。

そんな父だったけれど、
私の中には、世界で一番愛おしい、
二人だけの忘れられない思い出がある。

私が短大生だった頃のある日。
学校の帰り道、
姉が営む飲食店(スナック)に立ち寄った。

そこに、いつも通り黙々と
開店前の掃除をしている父の姿があった。

当時、父と母には大切な日課があった。
姉の店の掃除が終わると、
使用済おしぼりを
バイク(カブ号)で持って帰り、
自宅で綺麗に洗って干すこと。

皆が集うテレビのある部屋には
端から端まで、
何本も、何本もロープが渡されていた。

そこへ何列も吊るされた
真っ白なおしぼりは、
まるで部屋の中に浮かぶ「雲」
のようでもあり、
幾重にも押し寄せる「おしぼりの波」
のようにも見えた。

そして、そのおしぼりの枚数を
きっちりと数える。

父はカレンダーの裏の
白いスペースに、
一年分の線を几帳面に引き、
毎日、毎日その数を書き入れていた。

何年も、続いた。

後になって分かったのは、
おしぼりの枚数が
そのまま「娘のお店の繁盛具合」
を表していた。

口には出さずとも、
夫婦でおしぼりを洗いながら、
娘の頑張りをそっと
見守っていたのだろう。

「商売は2月8月(ニッパチ)は暇」
おしぼりの数を通して
私に教えてくれたのも、父だった。


さて、学校帰りのその日のこと。
掃除の合間に一息ついた父に、
私は尋ねた。

「お父さん、今何時?」

父は「わからん」

携帯電話なんてない時代。
私は、カウンターの中にあった
白いプッシュホンに手を伸ばし、
お馴染みの「117」のボタンを
ピ・ポ・パと押した。

時報のサービスだ。
『午前、◯時、◯分、◯秒をお知らせします……ピ、ピ、ピ、ピーン⤴︎』

機械的な女性の声を耳で受け止め、
「あ、◯時◯分だね」と確認して、
私はそのまま受話器を置いた。

その瞬間、
少し離れたところで掃除をしていた父が、
鋭い声でこちらを振り返った。

「ちゃんとお礼ば言いなさい!」

一瞬、何を言われたのか分からず、
ポカンとしてしまった。
お礼? 誰に?

……そうか、お父さんは、
私がどこかの女性に電話をかけて、
わざわざ時間を教えてもらった、
と思ったのだ。

「お父さん、これ、機械の声たい。
人間じゃなかとよ」

説明すると、
私はもうおかしくてたまらなくなり、
その場に座り込んでお腹を抱えて笑った。

私の爆笑する姿を見て、
事の真相を理解した父は、
照れくさそうに、
けれどなんとも嬉しそうに、
ニッコリと微笑んだ。



そんな父が、何よりも、
誰よりも深く愛していた
最愛の妻――私たちの母が、
父より先に旅立った。

母の一周忌の法要の席。
父は集まった6人の子供、12人の孫、
親戚の方々、全員と会い、
慈しむように言葉を交わした。


その、わずか七日後のことだった。

父は、

いつものように

炬燵(こたつ)に座ったまま、

静かに、

本当に静かに息を引き取った。


苦しむこともなく、
まるで居眠りでもしているかのような、
穏やかな大往生だった。

母が逝って、ちょうど一年後。
二人の命日は、
たったの一日違いだった。

あと9日で父は84歳だった。

あの「117」の時報サービスは、
時代の流れとともに役割を終え、
数年前に幕を閉じたのだという。

今の時代、
スマホを見れば
正確な時間がすぐに分かる。

便利にはなったけれど、
あのプッシュホンのボタンの音や、
カレンダーの裏の手書きの線、

そして父の
「お礼ば言いなさい!」
という温かい叱り声が懐かしい。


不器用で、口が悪くて、
でも本当は底知れぬ愛を
持っていた大正生まれの父。

今でもふと
時計を見上げるとき、
私の耳の奥には、
あの日の父の叱り声と、
優しく微笑む顔が、
鮮やかによみがえる。

更新されていく便利な世界の中で、
あの不器用な優しさだけは、
ずっと私の中で色褪せない。

そして、一日違いで並んだ
二人の命日を想うとき、
私の心は、
何とも言えない温かな光で満たされる。

お父さん、ありがとう。


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