『京都烏夜伽話』#21〜古代編〜氷華の章(凍れる檻、共鳴する孤独)
※本作品には、物語の性質上、一部官能的な表現が含まれます。あらかじめご了承ください。
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大君の身勝手な命令により、愛する夫と生まれたばかりの幼い娘を引き裂かれ、霊鳥の巫女となることが決まった氷鏡(ひか)。
霊鳥の祟りを恐れる大君は、氷鏡が禊(みそぎ)の儀に出立するまでの数日間、彼女を宮殿の奥深くにある別棟へと幽閉した。穢れを恐れ、夫である伽留皇子(かるのみこ)や、昨年、氷鏡が産んだ愛しい姫と会うことは一切赦されなかった。
しかし…出立の前夜、夜陰に紛れて、伽留皇子が密かに別棟へと忍んできた。
部屋を隔てる御簾(みす)の向こうから、伽留皇子の押し殺した泣き声が聞こえてくる。
「すまない、氷鏡……。父上の暴挙を止められなかった私を、許してくれ……」
皇子は御簾越しに、悔しさと悲しみに声を震わせて詫び続けた。
氷鏡は静かに立ち上がり、御簾へと近づくと、細く白い手のひらをそっと押し当てた。
「伽留様……」
気づいた伽留皇子が、御簾越しにその手のひらへと、自らの手を重ね合わせる。溢れる情愛を抑えきれなくなった皇子は、ついに御簾を激しくめくり上げ、氷鏡の身体を強く抱きしめて涙を流した。
その温かい胸の中で、氷鏡は静かに微笑み、己の運命を受け入れることを告げた。
「伽留様……どうか、もう私のことはお忘れください。宮に残した、姫のことを……どうか、よろしくお願い申し上げます」
それが、光の世界に残す、彼女の最後の未練だった。
◇
出立の当日。まぶしいほどの新緑が世界を彩る季節。
近江の崇臣(たかおみ)が、氷鏡の元を訪ねてきた。崇臣は、己の妻となるはずだった水鏡を護れなかったことを深く詫び、決然とした目で氷鏡を見つめた。
「いつか必ず、私があの禍々しき霊鳥を討伐してみせます。あなたを、必ずその呪縛から救い出します」
しかし、氷鏡は静かに首を振った。
「討伐……? 霊鳥は神です。死ぬことはありません……」
すると崇臣は、衣の奥から「波の文様が精巧に彫られた青銅の鏡」を取り出し、彼女に示唆した。
「(鏡を見せながら)この鏡の力と、我が一族に伝わる護符があれば、神とて封印することは可能です。私の母は山背(やましろ)の出身なのですが、その地の底には、巨大な地下水脈が流れています。私は水を統べる一族。近江から見て山背は真西――すなわち、日の沈む黄泉の国の方角にあります。私の水の霊力を以て、あの怪物を地下水脈の底深くへ永遠に閉じ込めます」
その言葉に、氷鏡の瞳に微かな光が宿る。
「……もし、それが叶うなら……姉も、泉下で喜ぶかもしれませんわね。……桜の頃、あの社にきていただけませんか?」
崇臣は氷鏡の覚悟を察し、「必ず」と静かに、しかし固く答えた。
こうして氷鏡は禊の儀を済ませ、緑深い山奥にある、禍々しき霊鳥の社へと入った。
◇
社での生活が始まった。
昼の間、氷鏡は一人で身の回りのことをこなした。畑を耕して食べ物を育て、薪になりそうな木の枝を拾い集める。
社の奥の冷涼な山肌に、年中氷が溶けない「氷室(ひむろ)」があるのを見つけたのも、この頃だった。
梅雨の時期になると、外に出られない日々が続く。氷鏡は社に保管されていた、これまでの歴代の巫女たちが書き残した書きつけや、古い書物を読み漁って静かに過ごした。
そして、夏が訪れた。
うだるように暑い、ある夜のこと。
突然、社全体を激しいつむじ風が叩きつけたかと思うと、次の瞬間、部屋の真ん中に漆黒の長い髪を持った一人の男が立っていた。
この世のものとは思えないほどに均整のとれた、圧倒的な美貌。氷鏡は直感した。これこそが、姉の命を奪い、歴代の巫女を貪ってきた「霊鳥の化身」であると。
霊鳥は、部屋の奥に佇む氷鏡をチラリと一瞥すると、冷酷に鼻で笑った。
「顔は同じでも、随分と男の匂いをさせているな」
処女のまま捧げられた水鏡とは違う。すでに人の妻となり、子を産んだ氷鏡の肉体から漂う生々しい情欲の気配を、霊鳥は見逃さなかった。
しかし、氷鏡は怯えるどころか、その美貌に冷たい微笑をたたえたまま、自ら迷いなく衣を滑り落とした。
「水鏡の知らないことを、私は知っています」
霊鳥は、目の前の巫女の予想外の傲慢な態度に、笑いを堪えきれないように、肩を震わせて低く笑った。
「……ククク……フフフ……。水鏡の知らないこと、だと?」
言うやいなや、霊鳥は氷鏡の身体を激しく褥へと押し倒した。
「面白い。水鏡が何も知らなかったとでも思うか? 水鏡が毎夜、ここで私と何を知っていたか、その身体に教えてやろう」
氷鏡の首筋から胸へと愛撫する、そして左胸の下にある雪の結晶のような形のアザを見て、ニヤリと笑った。
「双子で同じ位置に同じアザがあるとは…」
霊鳥は強い力で、容赦なく氷鏡の奥深くへと突き進んだ。暴力的なまでの快楽の嵐が氷鏡の肉体を蹂躙する。その激しい波の中で、氷鏡の脳裏に、封印されていた「姉・水鏡」との最後の記憶が、鮮烈に、そして生々しく甦ってきた。
◇
――それは、桜が狂ったように咲き誇る、あの水鏡の婚礼の朝のこと。
花嫁の支度は母がするというしきたりに従い、亡き母の代わりに、氷鏡が姉の着替えを手伝っていた。水鏡がなんのためらいもなく、白い衣を滑り落とした瞬間、氷鏡はあまりの光景に凍りついた。
白磁のように美しい姉の背中や肌のあちこちに、赤黒い斑点が、まるで散りかけた桜の花びらのように、おびただしく…おぞましく…こびりついていたのだ。
それが、人間ではない「何者か」に毎夜激しく貪り尽くされた生々しい痕跡であることは、一目で分かった。
「水鏡……これは、一体……」
驚愕する氷鏡の前で、水鏡はゆっくりと振り返った。
その瞳と視線が合う。そこには、恥じらいも、焦りも、恐怖すらもない。ただガラスのように冷たく、澄み切った、感情のない瞳だった。
「夜が更けてお祈りの言葉を捧げるとね、霊鳥様が褥にみえるのよ。……夜が明けるまで、ずっと、私に触れておいでになるわ」
水鏡の声からは、何の感情も読み取れなかった。まるで、魂を抜かれた美しい人形のようだった。姉は、あの霊鳥の愛に調教され、人形となって死んでいったのだ。
◇
容赦のない霊鳥の愛撫に何度も全身を貪られ、蹂躙され尽くしたのち、氷鏡は、隣で満足げに寝そべる霊鳥の胸元へ、しなやかにその身を躍らせて逆に組み敷いた。
彼女の瞳には、姉のような従順さは一切ない。宿るのは、神をも鬼をも射すくめる氷の意志。
「じゃあ……水鏡が死ぬまで知る由もなかったことを、私があなたさまに、教えて差し上げますね」
氷鏡は、氷のように冷ややかに微笑むと、霊鳥の唇を奪い、深く口づけを交わした。霊鳥の口内に侵入する氷鏡の唇は、驚くほど冷たい。
氷鏡の滑らかな舌が、霊鳥の舌と妖しく絡まり合う。
霊鳥は、その瞬間、己の身体に押し寄せてくる奇妙な感覚に目を見張った。
これまで貪ってきたどの巫女も、水鏡からも、一度として与えられたことのない感覚。心の臓が文字どおり凍りつくような冷たさでありながら、同時に脳髄を狂わせるほどの、狂おしい“不穏な熱”だった。
「……ククク…… 面白い、面白いぞ、氷鏡……!」
霊鳥は、その未知の快楽の味に深く酔いしれるように、歪んだ歓喜の声を上げて氷鏡の身体を強く抱きしめた。氷鏡はその後も、何度も、何度も霊鳥と身体を重ね合った。
◇
炎天の続くある日のこと。
氷鏡は、氷室の氷を細かく削り、「削り氷(けずりひ)」を用意した。
彼女はその冷たい削り氷を自らの口に含むと、霊鳥の唇へと口移しで流し込んだ。
霊鳥は、口の中で溶けていく氷を飲み込んだあと、名残惜しそうに氷鏡の唇を激しく舐め回した。
「甘い……。氷鏡、もっと口を開けてごらん」
氷鏡は、いつになく甘えた、妖艶な目で霊鳥を見つめ返した。
「これから毎日、作って差し上げますわ」
夏の数多きらめく星空の夜も。
秋の燃えるように鮮やかな紅葉の夕暮れも。
冬の凍てつく真っ白な雪の朝も。
二人は貪り合うように、互いの肉体を激しく求め、狂ったように交わり続けた。
二人の間に、愛などひとかけらも存在しなかった。それは復讐であり、捕食であった。
しかし、季節が巡るにつれ、氷鏡の胸の奥には、ある奇妙な感情が芽生え始めていた。
すべてを理不尽に奪われ、この世から隔離された山奥の社に、たった一人取り残された己の底知れぬ孤独。
そして、どれほど強大な神の力を持ち、どれほど巫女の肉体を貪り尽くそうとも、決して誰の心も得られぬまま、永遠の時をただ傲慢に、飢え続けているこの目の前の霊鳥という名の怪物…その底知れぬ孤独。
ふと重なり合う夜の静寂の中、霊鳥が氷鏡の艶やかな黒髪を愛おしげに梳く、その大きな指先が、酷く寂しげに、かすかに震えていることに気づいた。
(……私もあなたも、凍える檻の中にいるのね)
かつて夫・伽留皇子と育んだ、穏やかな光の愛とは全く違う。昏く、狂おしく、お互いをすり潰し合うような「孤独の共鳴」が、氷鏡の心を確実に侵食していた。
一方、霊鳥は、氷鏡という「底知れぬ氷の深淵」に完全に溺れ、狂っていた。
水鏡の澄み切った、ただ受け入れるだけの愛とは違う。自分を冷気で侵食し、支配してくるこの氷の巫女こそが、数千年の生の中で出会った、己の唯一の番(つがい)であると、完全に信じ込んでいたのだ。
――そして、季節は残酷に巡る。
◇
社の境内に、あの始まりの季節が巡ってきた。桜の蕾が弾け、まるで雪のように美しく舞い散り始めたある日。
氷鏡は、舞い落ちる花びらを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「桜が咲いたら、終わる」
その夜。氷鏡は、氷室の奥深くから、最も硬く研ぎ澄まされた氷を取り出した。
霊鳥は、窓の外の桜を眺めながら、心地よい気怠さの中でウトウトと微睡(まどろ)んでいた。
静かな衣擦れの音がして、氷鏡がそっと近づいてくる。彼女は霊鳥の頬に優しく口づけをし、その唇を愛おしげに舐めた。
「永遠に、あなたさまと共に居ります」
いつも凛として冷徹な氷鏡らしからぬ、微かに震えたその声に、霊鳥が違和感を覚えて目を開けようとした、その刹那――。
霊鳥の左胸に、肉体を消滅させるほどの、凄絶な冷たい痛みが走った。
「……っ!」
驚愕して見上げれば、氷鏡は、まるで雪の結晶のように冷たくも美しい、恍惚とした笑みを浮かべて彼を見下ろしていた。そして彼女の白い手は、霊鳥の胸の上に確かに置かれている。
霊鳥の心臓には、彼女が氷室で研ぎ澄ました、鋭利な「氷の刃」が深く突き刺さっていた。
みるみるうちに、霊鳥の強大な神の身体が、胸の傷口から凍りついていく。
「氷鏡……お前、は……」
氷鏡は何も答えず、霊鳥に突き刺した氷の刃の、反対側に突き出た鋭利な先端に向かって、自らの左胸を突き刺すように、狂おしい力でその胸元へと飛び込んだ。
「あぐ……っ!」
一本の氷の刃が、霊鳥の心臓と、巫女の心臓を、狂わぬ位置で正確に貫き、二人を一つに縫い付けた。
霊鳥は、みるみる氷結していく自らの身体を動かすことができず、ただ目の前で、自分を巻き添えにして愛おしそうに命を散らしていく氷鏡の、最後の瞬間を凝視していることしかできなかった。
吹雪のような桜の花びらが舞い散る中、社に向かって歩いてくる足音があった。近江の崇臣である。
かつて恋い慕った水鏡が絶命した、因縁の鳥居をくぐり、崇臣が社の中へと踏み込む。そこで彼が目にしたのは、言語を絶する凄絶な光景だった。
氷鏡の胸には、自らを貫いた水晶のような氷の刃が突き刺さっている。
「……!」
崇臣が息を呑んだのは、その氷の刃の反対側――、そこに、氷鏡と胸を貫かれ合って縫い付けられた、巨大な漆黒の「鴉(からす)」が、身動きもできず凍りついている姿だった。
(氷鏡殿……。あの霊鳥と、自ら刺し違えたというのか……!)
崇臣は、氷鏡が遺した命がけの好機を逃さなかった。ただちに一族に伝わる波紋の青銅鏡を掲げて呪文を唱え、禍々しき霊鳥の魂を縛る護符を、凍りついた鴉の全身へと貼り付けた。
身動きの取れぬ霊鳥は、崇臣の水の霊力によって、遥か真西にある山背の地下水脈の底深くへと引きずり込まれ、永遠とも思える封印の眠りにつかされた。
氷鏡の亡骸は、かつての水鏡のときと同じく、死んでいるとは信じられないほど、まるで生きているかのように白く美しかった。彼女の身体は、姉と同じ社の奥深くへと、崇臣の手によって手厚く葬られた。
◇
それから、長い、長い時が流れた。
大和の深い山の奥に、ひっそりと佇む小さな古い祠があった。
その前に、従者を連れた、身なりの良い一人の高貴な女性と、まだ幼い女の子が立っていた。宮廷に残された、氷鏡の娘と、その血を引く孫娘であった。
女性は、我が子である小さな女の子の肩を優しく抱き寄せ、祠を見つめながら静かに語りかけた。
「ここにはね、あなたのお祖母様が祀られているのですよ。……あなたのお祖母様は、恐ろしい禍々しき者を、その命と引き換えに退治した、とても強くて気高い女(ひと)だったのです」
幼い女の子は、母の言葉の意味が分かったような、分からないような顔をしながらも、目の前のお祖母様が眠る祠に向かって、母と同じように小さな手を合わせ、静かに祈りを捧げた。
〈〜古代編〜 おわり〉
