「実現しました!」の落とし穴 | 政治家のSNSが壊す「事実」と「信頼」の境界線

先日、ある国政政党の代表がSNSにこう投稿しました。

「ガソリン暫定税率廃止。先ほど、実務者で合意に至りました! 感無量😭(中略)ようやく政策実現できました。」

しかし、その事実は、あくまで「実務者レベルでの合意」がなされた段階。法律が成立し、国民が減税の恩恵を受けられるようになる「実現」までには、まだ党内承認、閣議決定、そして国会審議という多くのプロセスが残っています。
この「事実」と「発信」のズレを、私たちはどう受け止めるべきでしょうか。

◼️「アピール」か、「デマ」か
もちろん、政治家にとって公約が大きく前進したことの「喜びの表現」であり、「支持者へのアピール」であることは理解できます。交渉相手(政府・与党)に「もう後戻りはさせないぞ」という釘を刺す、高度な「政治戦略」だという見方もあるでしょう。
しかし、もしこれが有料の商品やサービスだったらどうでしょうか。
「まだ開発中(実務者合意)なのに、『新発売!完成しました!』」と宣伝するようなものです。
これは、景品表示法などで禁じられている「優良誤認(事実に反する表示)」と、本質的に何が違うのでしょうか。対象が「政策」という目に見えないものになった途端、それは許されるのでしょうか。「アピール」という言葉で片付けられる「誇張」と、国民の判断を誤らせる「デマ」との境界線は、どこにあるのでしょう。

◼️なぜ「記者会見」ではなく「SNS」なのか
「その発言、公式な記者会見で言えますか?」
もし、党の公式な記者会見の場で代表が「政策が実現しました」と断言したとします。おそらく、その場にいるジャーナリストたちからは、「まだ実務者合意ですよね?」「国会審議も経ていないのに『実現』とは、国民に誤解を与えませんか?」という厳しい質問(ツッコミ)が即座に飛んでくるはずです。
だから、言えない。
しかし、SNSは違います。そこは、ジャーナリストという「フィルター」を介さず、国民や支持者に直接、感情とセットで(「感無量😭」)届けられる空間です。
国民の中には「SNS=本音、記者会見=建前」と捉える傾向があります。もし政治家がその特性を意図的に利用し、「記者会見では言えない、事実とは異なるポジティブな情報」をSNSで流布させ、世論や支持を操作しているのだとしたら。
それは、もはや「政治アピール」の範囲を超えた、「国民への背信行為」ではないか。そんな厳しい問いが突きつけられます。

◼️機能不全に陥った「慎重論」
当然、「政治家のSNS発信も法規制すべきだ」という意見が出てきます。
これに対し、必ず「慎重論」が唱えられます。
「政治家の発言は『表現の自由』『政治活動の自由』であり、最大限保護されるべきだ。規制は権力による検閲につながる危険がある」
「不適切な発言は、法律ではなく、国民が選挙で判断(=落選させる)すればいい」
一見、民主主義の根幹を守る正論に聞こえます。
しかし、この「慎重論」こそが、もはや現代に即していないのではないか。
「自分たち(政治家)に都合のいい、何でも言える環境を崩したくないだけではないか」――。
なぜなら、「慎重論」が正しく機能するためには、「国民が多様な情報を比較し、理性的で成熟した思考で議論できる」という大前提が必要だからです。

◼️今の現実はどうでしょう?
SNSの短文や感情を煽る文化に慣れすぎた私たちは、熟慮する前に「いいね」を押していないでしょうか。「まともな思考」をする前に、キャッチーな言葉だけで判断していないでしょうか。
「SNS選挙」とは、まさにこの国民性やプラットフォームの特性を、政治家が利用する戦略です。
「選挙で判断せよ」という伝統的な民主主義のルールは、有権者の理性を飛び越えて感情をハックするSNSという技術の前で、すでに機能不全に陥っています。
私たちは今、非常に難しい岐路に立たされています。
政治家の「言論の自由」を建前に、SNSでの意図的な印象操作や「アピールという名のデマ」が横行する現実を黙認し続けるのか。
それとも、「国民の知る権利」や「政治の公正さ」を守るために、政治的表現という聖域に、何らかの「ルール(規制)」というメスを入れるのか。

あの日、SNSに流れた「実現しました!」という一言は、現代の民主主義が抱える、この最も重い問いを私たちに投げかけています。

いいなと思ったら応援しよう!

蒼依英哲 読んで「伝わった」と思ってもらえたら、気持ちのチップを送っていただけると嬉しいです。あなたの応援が「語りの道」になります。