見出し画像

両親のこと


我が家は姉、兄、わたしの三人姉弟だ。
そして、東京、地元(函館)、名古屋とみんな住む場所も違う。
そしてわたしだけが色々失敗を繰り返して恥ずかしい気持ちから地元に帰る道を捨てた。

昨年、四年ぶりに会った父はこの写真の通りおじいちゃんになっていた。
こうなる前の父は、元々カピバラさんのようにお風呂がとにかく大好きな人間だったので、昔からわたしを男湯に連れて行ったり(こう書くと語弊になるが、うちは母が仕事人間だったので、風呂のない家でわたしをひとり女湯に連れて行く選択肢がなかった)
七十過ぎても車を運転して、ひとりで温泉に行ったり、知らないおじさんと無言のコミュニケーションをかわしていた。

父が突然病気になったのは「梅毒」だ。
これが恐ろしいもので、父は温泉以外どこも行ってない。はっきり言うが一応検査はしているので、彼が元々梅毒の菌を持っていたわけではない。

どうやら、元々燻っていた心臓の発作を繰り返して倒れた時に、温泉から梅毒をもらってきたらしい。
温泉で意識不明になることが度々あり、何度か知らない人に助けてもらった。これだから北海道の民は優しい。しらんじいさんが倒れていても速攻助けてくれる。
しかし事件はこのあとも続いた。その三日後に突然39度を超える高熱を発症した。
「お父さん、救急車呼ぼう?」
「んなもんいらね! 寝てりゃ治る!」

冷えピタとカロナールだけで乗り切ろうとしていた母は35年現役で働いていた看護師だ。
函館という狭い場所で救急車を呼ぶと、近所の人に必ずヒソヒソとあることないこと噂を立てられる。
父は寡黙な人間だが、周囲の「雪かきチーム」のじいさん達と毎年冬には笑いながら「今年の雪はおもてえなあ」とか「さっきもかいたばっかりだべ」とか、「隣の○○さんところもやっとくかあ」とか互いに手伝ってながら大雪の季節を乗り切っていた。

それが、二年ほど前に梅毒になってから一気に体調が悪化し、まさかのパーキンソン病まで見つかった。
前回帰省した時は父もまだ現役で運転していた。ただ、帰省した時期が冬で路面も悪かったせいもあり、父の運転が珍しく「調子が悪かった」

わたしは極度の車酔いがあるので、今も父の運転以外は飴を舐めたり何か違うところに意識を集中しないと酔う。
何十年もタクシードライバーをしていた父の運転は安心しかなかったのだが、四年前に帰省した時の父のブレーキは急だった。「疲れやすい」「夕方になると目がしょぼしょぼするから夜の運転ほ減らしている」とか言っていたのに、わたしはあの時ふうん、と鵜呑みにしていたのを悔いる。母も「お父さん最近疲れやすいから夜は運転させたくないんだけど、○○が帰ってくるからってイキイキ車出したよ」と話していた。こんなに父が老いていると知っていれば、あの時タクシーで帰省したのに……よくもまああの日事故らなかったと思う。これはわたしと父についている守護霊のお陰だ。(わたしは全く知らない人なのだが、父方の誰か女の人が見守ってくれているらしい)

何気ない日常がいつまでも続くものだと思っていた。それでも、自らが歳を重ねるように、両親も勿論歳をとる。
母は惜しまれて病院を辞めたあとも、尋常乾癬のせいで温泉にもいけず、姉のところにいる大好きな孫に会えるのは年に一度か二度。もちろん、仕事人間で生きてきた母は体をもてあましてデイサービスの看護師として働いていた。
しかし父の運転がないと職場へ行けないので、父頼り。この時点で既に何らかの異常を起こしていた父はある日母に「迎えにいくのしんどい」と話したらしい。
寝ている時間が増え、趣味のパチンコにも行かなくなり、競馬を見るのが楽しみだった父のやる気は色々失われた。
そのあたりで愛犬レオンが一気に老衰が進み、死んだのも理由のひとつだろう。
1匹目のチャーリーはわたしのせいで死んだ。これは永遠に覆せない事実だ。
父はあの時噴門部の裏側にできた胃潰瘍のせいで2リットル以上吐血し、あわや死にかけた。病院で12時間以上も腹の中をいじくられ、入院期間はたかが胃潰瘍。されど胃潰瘍なのに一ヶ月以上。
父を愛して忠犬だったチャーリーは突然不穏になった。
チャーリーは毎日父を探して、散歩にいっても父の匂いを探した。兄貴が父の車を動かす時も、父が帰ってきた!と喜び尻尾を振り一メートル近くジャンプする。なのに、エンジンのふかす音だけで父の運転ではない、と瞬時に悟ったチャーリーは寂しそうに尻尾をたれた。
ある雪の降る中、チャーリーは鎖をつけたまま出て行った。首輪もつけているのに見つからなかった。でも、この時わたしは家の中にいた。
人間不信絶好調で、自分すら可愛がれないのに、何故犬の面倒まで見なくちゃいけないんだ?という思いから、わたしはチャーリーの対応はほぼ放置していた。
でも餌はやらないといけないし、散歩も連れていかなきゃいけないし、水もかえないといけない。うんちも外に放置するのでそれも片付けないといけない。
正直、チャーリーがいなくなった時のわたしはこれでやっと自分の時間が取れると喜んだくらいだ。最低だが、当時のわたしは相当病んでいた。

父が退院する前、母から「チャーリーがいなくなったって、お父さんになんて言えばいいんだろう……」と困り果てていた。
家族会議の結果、父にはギリギリまで知らせず、退院してからチャーリーがいないことを告げた。父は無言だった。ただ、「あいつも老犬だからな」とぽつりとつぶやいたのは忘れない。わたしが殺してしまったチャーリーの存在は、父に猛烈な後悔を植え付けた。

その後も、三ヶ月以上新聞に「この犬を探してます」と書き続けて、連絡があった六件全て見に行ったが特徴的な鼻周りの黒い輪がなく、チャーリーではなかった。
看取れなかった悔しさと寂しさから父は2匹目の犬を飼ってきた。

レオンは最後まで父と共に過ごし、看取りができて良かったのだが、それから父の歩行能力は衰えた。

動物は良くも悪くも癒しになる。
勿論、育てる義務を放棄するわけにいかないので、父は3匹目の犬はいらないと言った。「おれが先に死んでしまうから」と。
元気そうに見える母も実は下血を繰り返しており、20年近く「子宮筋腫」を放置している。これが厄介で、子宮筋腫は閉経したあとも成長する。昔、オペ室にいた時に3000gを超える子宮筋腫を摘出したことがある。子供やん!!
母の下血がただの便秘とストレスなら良いのだが、金婚式の前に母は一応検査を受ける。

実は、父は五月三日が誕生日で、2025年5月25日で、「金婚式」を迎える。

はっきり言ってうちの両親は相当苦労した。
姉はマイルドヤンキーで、学生時代はほとんど家にいなかったし、何度も警察のご厄介になった(友達もヤンキーだから)母と父から殴り合いもしたし、怒鳴ったり雪の中外に出されることもよくあった。でもヤンキーはヤンキーの友達のところに寄生して実家に帰らなくても普通に生活していた。高校時代の姉が家にいた姿はほとんど見ていない。
兄貴は生まれつき片肺が悪く太れない。そして、診断されていないが、完全な多動症でIQが高すぎるせいなのか、ひととのコミュニケーションがうまくできない。簡単に言うと将棋で何十個も先を読んで、それを突然話すような感じなので、普通のひととAを伝えたい、という内容がすっ飛んでFくらい先の話を始めるような具合だ。
だからと言って頭が悪いわけではなく、自分の中では先々まで理解しているけれども、他者に自分の言葉を伝えるのが難しいらしい。書面で作られる兄貴のパワーポイントの資料は驚くほど分かりやすかった。どうして紙では書けるものが、メールや話し言葉になるとうまくできないのか不思議でたまらない。でも診断受けているわけではないから仕方ない。
兄貴が働き始めてすぐに病院の看護師から言いようのないいじめを受けた時にやっと母が動いた。言葉少ないものの、母は「師長さんに相談して、男の人のいる職場におろしてもらいなさい」と一言だけ助言した。その甲斐あり、兄貴は今もとある職場でいい立ち位置でイキイキ働いている。骨皮筋右衛門ですが。
そして猛烈問題児のわたし。
姉と兄にみんな全力で関わっていたので、正直わたしは「放置」されて育った。母は仕事に復帰していたし、父はタクシードライバーなので夜勤もある変則勤務。近くに子どもはいたが、そもそも家庭内でのコミュニケーションが極端過ぎるほど少なかったので、仲良くできる友達もなかなかできず閉塞的に育った。そして何もかも父と兄と一緒に行動して育ったので、女の人がとにかく怖かった。まともに出来た女友達は片手にも満たない。
姉とは七歳離れているので、わたしが30歳過ぎてからまあまあ交流があるような感じだ。それに、姉も友達と遊ぶのが大好きで妹に興味の欠片もなかった。幼少期から他者との距離感が下手くそで、感情のコントロールがうまくできずものに八つ当たりする日々だったが、それが42年経って今やっと消化できるようになってきた。
小さい頃に手がかからない子どもは、大きくなってから爆発する。
わたしには子どもはいないが、子を持つ親は手をかけた子どもの方がいいと思った方がいい。事実、わたしはよくまあこんな状態でグレなかったなあと思うくらい色々事件あった。今は過去を捨ててきたので割愛。

三人ともそれなりに手がかかり、
母は自分をいじめていた父の姉達を全員看取り、最後に父を見送るために一緒に過ごしている。

函館は高齢者にとって過酷な環境だ。雪は多いし、高齢化がすすみ、除雪の入らない場所は入らない。車がなければどこもいけない。バスは増えたが遅れる。お金がないからシステムの見直しがされない。
毎年冬になると行われる雪かきチームは今や稼働しているメンバーはほぼいない。
数年前から交流の途絶えていた数件先の家に戻ったお子さんも、「Sさんの家、最近雪かきしてないけどお父さんどうしたの?」と聞かれ、足の悪い母がレオン散歩装備のジャケットでのろのろと雪かきしている姿を見て若い人たちがたまに手伝ってくれる。
父が愛した家庭菜園は規模を縮小させ、今はトマトしか植えていない。雑草抜きも母の仕事だ。
確かに仕事をやめて趣味もない母にとって、父の介護と裏庭の手入れ、買い物と掃除は「忙しい」時間を自分で構築することで母の生活を作り上げているとは思う。
でも、もう自分を大切にいきてほしい。
そう思っても、父は死ぬまで函館にいたいと遺言のように話しているし、母は母でお父さんが死んだら誰もみてくれないし施設に行くと話している。車がない長距離歩けない母にとって函館は過酷でしかない。
じゃあお前実家に帰ってやれよ、と思う人もいると思うが、わたしはやっとこの42年かけて自分のためにいきる決断を下した。そのために全部捨ててきた。だから、物質的な支援と、たまに顔出しに帰るけれども、わたしは函館には帰れない。

手のかかる子ども達でごめんなさい。
そして、産んでくれて、ここまでまっすぐ育ててくれてありがとう。

昭和58年、わたしが産まれる前に一度離婚を決断して、結局提出しないままずっと押し入れに入れたままの離婚届はまだ実家にあるだろうか。
はるか昔、笑い話のように、「もうこの人の姉の面倒みるの疲れちゃって離婚しようと思ってたんだよね」と話していた母は離婚という話はしなくなった。

「わたしが、最期にこのひとを見送るから」

看護師歴35年の母。
強い決意と共に、母は今日も寝たきりに近い父を介護する。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集