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令和人文主義から零れ落ちる者たち─ローカルで働く人のための教養について

最近、「令和人文主義」って言葉がやたら流通している。
COTEN、QuizKnock、NP、PIVOT、その辺の文脈とくっつきながら、

「ビジネスと人文知をつなぐ、新しい教養」

みたいなパッケージで語られているやつだ。
最近、これに対する批判記事も読んだ。

正直、これ自体はよくできた商品であり言葉だと思う。
会社員で、ちょっと本も読みたい、哲学も知りたい、でもガチのアカデミズムはだるい。この層に向けて、「歴史・哲学・文学をわかりやすく、ビジネス目線も添えて」出していく。やってることは分かりやすいし、需要もある。

ただ、だんだん見えてくるのは、

令和人文主義=ホワイトカラー正社員のための人文知

という輪郭だ。

NPやPIVOTと相性いいのも、そりゃそうでしょ、って話だ。
企業の経営・マネジメントと、人文知がぴったりハマる層。
都内勤務・ホワイトカラー・サラリーマン。
よくてタワマン、悪くても「タワマンに憧れる側」。

ここまではまだいい。問題は、「人文知」って言葉が、いつの間にか「タワマン文学」とさして変わらないような性質を持ち始めてることだ。


「市民様の啓蒙」への絶望

じゃあ、「令和人文主義」が嫌なら、「市民のための啓蒙」に戻ればいいのか?と言うと、そこにもかなり絶望がある。

いわゆるリベラル系の「市民向け啓蒙」は、結局のところ、

  • 既存の論客がポジショントークを繰り返し、

  • テレビと新聞とXで同じ名前がぐるぐる回り、

  • 「次の世代」については口では言うけど、実際には席を空ける気ゼロ

という世界になっている。ここ十数年の言論界を見ていて思うのは、

「上の世代が死ぬまで、あそこには未来も知性も生まれないな」

という冷めた感覚だ。

特に上の世代がやっているのは、ほとんど「知的マウント合戦」でしかない。どの本を読んでるか、どれだけ歴史に詳しいか、どの理論を早く知っていたか。中身よりも、情報の早さと名前の多さで殴り合っているようにしか見えない。

そこに、これから子ども育てて、ローン抱えて、現場で働いて、メンタルすり減らしながら生きてる人間の「明日」は、どれだけ見えているんだろう。

正直、俺はまったく見えない。


今、人文知が一番必要なのはどこか

そう考えたときに、どうしてもこう思ってしまう。

今、人文知が一番必要なのは、スーパーに行って、子ども育てて、地方の工場やサービス業で働いている人たちだろと。

「正社員様の哲学」と「市民様の哲学」のあいだには、大きな空白がある。

  • 四大出て、大企業でホワイトカラーやってて、
    そこそこ再配分される側の「正社員様」向けの人文知。

  • 90年代以降ずっと、「市民」という言葉を掲げながら、
    実際はインテリ中産階級の話として回ってきた「市民様」の教養。

この二つの間に挟まれている、

  • シフト制で働いている人

  • 地方の工場でラインに入っている人

  • 介護・保育・医療・接客で感情労働している人

  • 学歴も職歴も“語れるスペック”にならないまま、なんとか食えてる人

この人たちに向けた「教養」って、今の日本にほとんど用意されていない。


「生活者の教養」って、そもそも何を指すのか?

じゃあ、「タワマン文学」でも「市民様啓蒙」でもない教養って何だろう。俺なりに、ローカルで働く人のための教養を、3つくらいの要素に分解してみたい。

① 自分の暮らしを、自分の言葉で説明できること

まず一つ目は、自分の暮らしを、自分の言葉で説明できることだと思う。

  • なんで今の仕事をしているのか。

  • 何に時間を奪われているのか。

  • 何にイライラして、何に救われているのか。

  • 誰に搾取されていて、誰に支えられているのか。

これを「自己責任」とか「努力不足」とか、あまりにも雑な言葉で処理され続けてきたのが、この30年だ。

生活者の教養っていうのは、その雑なラベリングを一回剥がし、

「いや、これは構造の問題だよ」
「ここはほんとに自分の選択ミスだな」
「ここは、そもそも制度設計がおかしい」

と、ちゃんと仕分けできる言語セットを持つことだと思う。

高級な理論書はいらない。
必要なのは、暮らしを自分の言葉で説明できる語彙とメタ認知だ。

② 感情を「自分一人のせい」にしないための地図

二つ目は、感情をすべて「自分が弱いからだ」と片づけないための地図だ。

  • しんどいのは、自分がメンタル弱いから。

  • 将来が不安なのは、自分が勉強してこなかったから。

  • 人に頼れないのは、自分の性格がひねくれてるから。

こういう「内面化された新自由主義の語り」を、一度外に蹴り出す作業が、人文知の本来の仕事だったはずだ。

昔の教養主義は、それを「市民」レベルでやろうとした。
令和人文主義は、それを「正社員」レベルでやろうとしている。

でも、現実に一番追い詰められてるのは、そのどっちの枠にもキレイに入らない人たちだ。

生活者の教養ってのは、

  • 「あなたが今感じている不安・怒り・虚無には、ちゃんと構造的な背景がある」

  • 「それを言葉にしたからと言って、すぐに楽にはならないけど、全部自分のせいよりはマシな場所に立てる」

ということを、しつこく、何度でも言うことだと思う。

なんなら、俺はそれを音楽と文学から学んだ。マニック・ストリート・プリチャーズやRAKIMやCOMMONは、音楽を通じて、俺にこう言った。

「システムに支配されるな、知識を学び、構造を見抜け、そしてお前が得た、知識や資本をお前の仲間たちとシェアするんだ」と

これが、14歳の少年をどれだけ勇気づけただろうか。学ぶということの尊さを彼らは、ワーキングクラスの立場から教えてくれた。

そして、彼らが俺に与えたのは、何よりも「Grit=闘志」である。

③ ローカル経済と制度に対する“最低限の武装”

三つ目は、ローカル経済と制度に対して、丸腰でいないことだ。

  • 自分が働いている会社が、どんな構造で儲けているか。

  • 地方自治体が、どういうところに予算を突っ込んでいるか。

  • 税金・社会保険・補助金・労働法が、自分の暮らしにどう刺さっているか。

これを全部わかれ、とは言わない。でも、「完全にノーガード」は危ない。生活者の教養ってのは、

・自分の労働力が、どこにどう使われているのか
・自分の払った税金が、どういう風に上で回されているのか

を、だいたいの輪郭くらいは理解しておくことだと思う。
それによって、

  • 「マジでおかしい」と感じたときに、行政・議会・法律に対して、最低限のリアクションができる。

  • 「これは市民として動くしかない」と判断できるポイントを見極められる。

令和人文主義が「会社員」に最適化されていくほど、この「生活者としての最低限の武装」が抜け落ちていく危険がある。

理由は明確で、スキルのある会社員は、どこでも行けるからだ。
しかし、知識が本当に必要なのは、どこかに行けない人たちである。


じゃあ、それを誰がやるのか?

ここまで書いて、問題はシンプルだ。

「正社員様の哲学」と「市民様の哲学」のあいだに挟まれている、
地べたで働く人のための教養は、誰がやるのか?ということだ。

  • 大企業ホワイトカラー向けには、令和人文主義がある。

  • 市民運動向けには、まだギリギリ、古い左派の理論が残っている。

  • 群衆(マルチチュード)向けには、国際的な運動や思想がある。

でも、シフトに入って、スーパーで買い物して、子どもの宿題見て、気づいたら一日終わってる人この人たちに向かって、「あなたの暮らしはこういう構造の中にあるよ」と、ちゃんと説明してくれる言葉は圧倒的に足りていない。

ここに向けた人文知を組み立てるには、

  • 企業側のロジック(経営・組織・マーケ)

  • 国家側のロジック(法・制度)

  • 生活者の実感(家事育児・ケア・地元の人間関係)

全部またいで、泥臭く、ローカルに、話さなきゃいけない。
今の日本でそれをやってるのは、恐らくブレイディみかこだろう。

それは「タワマンの書斎」でやる仕事じゃない。
かといって、「市民運動の演説台」だけで完結する話でもない。

一周回って、吉本隆明がやっていたような、生活と感情とイデオロギーをごちゃ混ぜにして語るポジションが、もう一度必要になっているんじゃないか、と俺は思う。


終わりにーローカルのための教養を自分たちで組み立てる

令和人文主義をディスるのは簡単だ。
「正社員様の哲学じゃねえか」で終わればイージーだろう。

でも、その一方で、自分たちの側に問いを返さなきゃいけない。

スーパーに行って、子ども育てて、地方で働いてる俺たちは、
どんな言葉を必要としているのか?

どんな物語なら、自分の暮らしの矛盾をまっすぐ見られるのか?

どんな教養なら、タワマンでも市民様でもなく、ローカルから語り返すための武器になるのか?

その答えは、まだきれいな名前がついていない。「令和人文主義」みたいなタグは、たぶん当分出てこない。

だからこそ、ローカル側で勝手に作っていくしかないんだと思う。

  • ローカルの話をする。

  • 生活の話をする。

  • それを経済・制度・思想とちゃんと接続する。

  • 「弱さの消費」でも「成功者の自慢」でもない語り方を探す。

その積み重ねの先に、「ローカルで働く人のための教養」が、ゆっくり形になっていく。

令和人文主義がホワイトカラーの知的インフラを整えていくなら、誰かが、ローカルのインフラも整えなきゃいけない。

その「誰か」は、たぶん俺たち自身だ。
そして、その「俺たち」には、もちろん俺自身も含まれる。

タワマンじゃなく、ドラッグストアと業務スーパーのレシートを握りしめてる側の人間だ。

下流社会からこんにちは、俺ら生きてていいすか お偉いさん
なめてんじゃねえぞ 俺ら笑えねえこんな世の中 もうまっぴらなんだよ

田我流/やべー勢いですげー盛り上がる

そういう立ち位置から、もう一回「教養」という言葉を再定義しよう。
やべー勢いですげー盛り上がってやろう。


追記

いろんな文芸関係の人に今回の記事を引用してもらっているが、まず一つだけハッキリさせておきたい。
俺は令和人文主義を全否定しているわけじゃない。

実際、COTENサポーター登録しているし、三宅さんの本も買う。
仕事で必要な文脈ならPIVOTだって普通に観る。
俺が言っているのはただ一つ、「人文知」という言葉に対して、いろんな地点からツッコミが飛ぶ状況のほうが健全だろ?ってだけの話だ。

偉大なるヒップホップ・グループ、Public EnemyのチャックDは Fight The Power でこうスピットした。

「俺のヒーローってのは、切手に乗るような連中じゃねえ」

まさにこれだ。俺は、人文知から遠いところにこそ知性が宿る瞬間を何度も見てきた。そこに落ちてる“知”のほうが、俺にはずっと重かった。生きていく術に直結したからだ。

そこで眠っている知性を、ちゃんと言葉に引き上げるため。
俺は一人で書いてるし、ポッドキャストもやっている。

だから、みんなで上がろうぜ。
そこに知性があるなら、そこがみんなの人文知になると俺は思う。

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