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エッセイ:鉛筆の自由は私の命

こんにちは、青鴉真尾です🌸
今日は「表現の自由ってなんでしょう」



ヨーロッパに住むようになってから、
私は青いボールペンを使う。
最も安価な上、そのハッキリした痕跡は、
勉強に心地いい。

でも時折、優しく書きたくなる。
鉛筆を使う。

中学から大学までは、シャープペンシルを愛用した。
小学校の時、私が使っていたのは鉛筆だった。


木の素材は、分かりやすく
生きていたもの。

その生きていたものが、
生きる私たちの意思を残すために、
削られてゆく。





鉛筆削りができる前は、
肥後守で削っていた。
私は小学校の時、
肥後守の使い方を学校の授業で教わった。

煩わしいそれは自分の手を切りそうで、
少し不安だった。

今、その不安を思う。

私たちは命だった木を削って、
今生きている自分の文字を書く。

今生きている私の言葉を刻むために、
私の生きている手を切る恐れがあるのは
当然だと思った。








それは自分の指を怪我してまで
言いたいものなのか、
木という、他の命を削ってまで。

命の等価。
そんな簡単に
言葉があって良いものでないと思った。



表現の自由とは言うけれど、
この自分の命の天秤が
あってこそなのかもしれない。














今は簡単に鉛筆削りで、書き手の命を賭けずに
ガリガリと相手の命だけを削る。

その瞬間、
鉛筆はただの道具になる。物質になる。

シャープペンシルは削りもしない。
ただ押し出すだけ。
芯が折れたって、樹液も出ない。
血も出ない。

そうして、私たちが生きると言う実感を、
痛みを、
日常の些細な事から失ってゆく
孤独。





現代の孤独って何でしょう。
多分私たちが
命から隔離されている孤独。

それはなんだか、
生まれてすぐには愛されたけれど、
ある日、幼稚園に親が迎えに来なくて、

それからずっと1人で過ごす子供のような
孤独かもしれない。

動物園に初めて迎えられた
一頭の子供の象を思う。














動物園の孤独。
生き物の実感がない世の中は寂しいから、
やるせないから、
ネットで交流する。

でも生き物という実感が薄い現代人は、
生き物との触れ合い方を知らない。
だから、誹謗中傷。


命の愛情不足で、
私たちの魂は泣いているのかもしれない。
でもそれは、
私たちが「便利」のために切り捨ててきた
森林伐採。





便利になるのは良いこと。
失われたものは仕方ない。

だから今私たちは失われたものを
取り戻そうと言うのではなく、

新しい魂はどこだろう
現代の命はどこだろうと、
考えるべきなのかもしれない。



それほどに、世の中の発展のスピードは
機械化によって、「生き物の進化の速度」
を超えて来た。

私たちが私たちを、失うほどには。







画面の向こうには命がある。
命ってなんでしょう。

触り心地のいいスマホのツルツル画面。
タップ入力する時、その指の先に痛みはない。

カタカタと叩くキーボードは、
間違えてもキー一つで、簡単に消せる。
間違えた事を認める消しゴムさえ、
使わない。




鉛筆の尖った先端

あのすぐに丸まってしまう
不器用な鋭さが、
私は好きです。

心が
綴るほどに丸くなる。

鉛筆が短くなる度、あなたは私になる。

私になってくれたあなたの数を思う。

命の数。


満天の星空の美しさは、
数えられない事かもしれない。








今の私が大切にする「綴るほどに、美しくなる」
この感覚はどこから来るのか、少し辿ってみました。

権利とは何でしょう。
デモが多いフランスに住む今、時折考えております。

お読みいただき、ありがとうございました☺️🌸
今日もきれいになりましょう🍀

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