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映画『顔を捨てた男』を観て、激鬱に 【感想】

映画『顔を捨てた男』を見ました

忘れないように爆速で感想を書きます 見たてほやほや感想です お楽しみください(と言いつつ、当日中に書ききれなかったので追記してます。あらかじめ言っておくと、長いです!頭に浮かんだことをぽんぽんつらつらと書いているので長いですが、ぜひに最後まで読んでいってください!)

では、早速
普通に、激鬱映画でした

なぜならば、私がゴリゴリのルッキズマーだからですね
この映画はルッキズマーであればあるほどグサグサと突き刺さる、そして抜けない
例えるならば、フォークに返しが付いているのでなかなか抜けないし、抜こうとするものならば血肉を犠牲にするしかないです。(「血肉」、映画を見た人ならこれの指すところを分かってもらえるはず!泣)

映画が進んで行くにしたがってエドワードに報われて欲しいと思えば思うほど、自らの、「美醜で人となりを判断するさま」に自覚的にならざるを得なくて、それが裏返しであることを突きつけられます
この映画で描いている、いまを生きる観客へ課された命題かー

「顔が変わって別人になった」エドワードというのは、劇中でも何度も言及されているように、「ハンサム男」なわけです。

だから、「ハンサム男エドワード」に、オズワルドに負けて欲しくない!報われて欲しい!全てを掻っ攫われないで欲しい!と思うことはつまり、
外見(顔)が「醜い人間」よりも、「いい・美しい人間」に幸せになって欲しいという願望に他ならないわけで

もちろん、顔に腫瘍があった頃の、人の注目を集めないように心に決め、月明かりの下にさえ出られなかった、思うように生きられなかったエドワードに対して寄り添う気持ちが故の「幸せになって欲しい」願望というのもあるかもしれません。
でも、それすらも、あの時(醜くかったとき)結ばれなかったイングリッドと(美しくなった)今度こそ、うまくいってほしいと思うことはつまり、醜かったときに恋愛へ発展しなかったのは客観的に見て(醜いのだから)「普通に分かる」ことで、当然で、イングリッドが振り向かないのも何らおかしいことではない、と例え無意識だとしても心の中で潜在的に納得している自分がいる(いた)ということで……………


ほら、考えれば考えるほど激鬱になるでしょう
そうなんです。ここまでくると、エドワードに対する同情や変身願望の応援や、彼と同じようにオズワルドに対して嫉妬することさえも、正しかったのかが分からなくなってくる
正しい正しくないということではないかもしれないから、健全なのかそうじゃないのか、とも言えるかもしれません

上述したように、顔に腫瘍があった頃の(醜い)エドワードというのは、

人の注目を集めないように心に決め、月明かりの下にさえ出られなかった、思うように生きられなかった

わけですが、
これさえも、オズワルドを見ていればそんなのは顔の腫瘍の有無とそれによる他人、いや自分自身による美醜のジャッジなんてちゃんちゃら関係のないことだと、毛のほどでもないと一掃、一蹴されます

現にオズワルドは、はじめからずっと良い人で、明るく社交的で、積極的で、気が利けて、ユーモアがあって話も面白くて、働かずとも暮らしていけるだけのお金も持っていて、歌も上手くサックスも吹けて、"恋人でも何でもない"女の人に言い寄られて、何なら結婚もしたこともあって子供もいて、複数のコミュニティにも所属していて、初めて会った人たちともすぐに関係性を築いて仲良くなれて、「その顔」の一点を除けば全てを「持っている」わけで
…ここまで書けば「その顔」なんて「持っていないもの」として敢えて挙げる必要すらないことにお気づきでしょう

かつてのエドワードも、ハンサムになったエドワードもずっと神経質なんです。顔は変わっても性格までもは変わらない。変われない。
現に職場の同僚達に何度も「神経質」だと言われている。一方、オズワルドはどうでしょう。
神経質のしの字もない。

でも、どうしたってオズワルドの「持っているもの」に私たち観客も執着してしまうんです
なぜなら彼はかつてのエドワードが持っていないものを全て持っているから。

エドワードが「顔」を理由に(実際には「顔」のせいではないとしても)諦めていた、自らシャットダウンしていた全てを「顔」なんて物ともせず獲得してきたから。

つまり、エドワードがその"顔を捨てて"までも手にしたかった全てを、顔を捨てずとも"現実を受け入れている"オズワルドはいとも簡単に手にれてきた、いる、いく ということ

「ハンサム男エドワード」と、オズワルドとの対比がこれでもかというほど残酷に、明確に描かれていて、こっちまで勝手にしんどくなります

だって、オズワルドは柔道もやってるんですよ!???

結果的にこの柔道のせいでエドワードは決定的にその人生を狂わされる(と書くとオズワルドが悪いかのように聞こえますが、種を撒いて自ら進んで行ったのはエドワードだけれども、物理的にはオズワルドのせいだから、もう半分はオズワルドのせいだと、ここではそういうことにさせて〜〜)

この「柔道」も、かつてのエドワードが確かアパートの住民だったかな?に柔道くらい(あともう一つ、なんだったか忘れましたが)やったらいいと言われているシーンが映画冒頭にあります。
エドワードはその勧めを相手にせず適当にあしらっていましたが、後々オズワルドが柔道をやっていると話しているシーンが来たときは『あぁ〜〜!』と思いましたよ。くぅ、此奴、柔道もやっておるのか、とね。
そしてあの背負い投げ〜☝️ですよ

オズワルドを見ていると、やはり何らかのコミュニティに属しているということはとても大きな糧になるのだなぁと思わされます
何か一つでも自他共に認められている「一員」として居場所が用意されているコミュニティがあると、それだけで、他者の承認をも介した自分の存在論的安心が満たされるしなぁと思うなど

他にもうぅ…と思ったシーンはあって、
イングリッドがハンサム男エドワードと性行為中に、「あのマスクある?被ってよ。」と言って、あの頃のエドワードの顔をスキャンして3Dプリンターで作ったマスクをつけさせます。
なぜかと尋ねるエドワードに対してイングリッドは、「"創作物"とヤりたいの」と答えますが、途中で笑い出し、「間抜けすぎる。やっぱり無理」と一蹴します。
と思いきや、結果的にオズワルドと恋仲になり、子供まで生まれます。
大きなお腹のイングリッドを見たとき、いややれたんかーい。と思わず心の中でツッコミを入れました。
それでも、彼女は、自身が脚本を書く舞台でのキャスティングについて、当事者を起用することは搾取なのではないかとも言っていて、あぁそういうところにもちゃんと自覚的なのは信頼できる(映画としても)と思っていましたが、
オズワルドが台頭してきてからのハンサム男エドワードに対する仕打ち(あえて仕打ち、と書くよー)は、ひどいよ〜。

映画の中でも、あの頃のエドワードの顔には、「慣れ」だと、はじめは人間の本能の、獣の自然な反応として恐れたりするかもしれないけれど、慣れたら大丈夫になる。といったことが言われていますが、イングリッドなんかはまさにそうなのではないか 元々、彼女にとってあの頃のエドワードは性愛の対象ではなかったにせよ、オズワルドに出会ってもその容姿をすんなりと受け入れられて、関係性が出来たのもあの頃のエドワードによる「慣れ」は、少なからずあったでしょうし。
そう思うと、ん〜彼のことを舞台の題材にしている時点で、
イングリッド作舞台の主人公・エドワードを演じるのはオズワルドがいいと思う、身を引いてくれとハンサム男エドワードにイングリッドとオズワルドが迫るくだりがあるんですが、そこで彼らは例えとして美女と野獣を持ち出します。
イングリッドが美女だとしたら、おのずと、エドワードは野獣である、つまり"醜い"のだ。とオズワルドが言い切るカットが印象的に演出されているのですが、こちらからしたらその顔したあんたが「醜い」って言う〜〜?そんな言い方、する〜〜?という、最悪感想を抱きましたね。ほんと、ごめんなさい

でも、オズワルドが(一応は、作中の)エドワードのことを"醜い"と言い切れる(断じてエドワードと自らは重ならない)のは、
この映画を通して一貫して描かれている、
「結局何だって自分自身の心の持ちようだし、外見は"内面の一番外側"なのだ」的なメッセージを、オズワルドというキャラクターが一身に引き受けて、体現しているから、まあ当然っちゃあ当然ではある

いまさっき心の持ちようだと書いたけれど、
オズワルドの登場後徐々にエドワードの様子がおかしくなっていくのは、彼が、オズワルドという存在によって、
「顔を捨てて」必死にかき集めてきた自分自身のアイデンティティまでもが揺らいでしまっているからで、そりゃあ、かつての自分を題材にした演劇の主演が自分ではない、オズワルドに演られるなんてたまったもんじゃないよなー
顔は変われど、今も昔もエドワードはずっとエドワードでしかなく、それ以上でもそれ以下でもないと自らが一番よく分かっているなかで、それを、かつて思いを寄せた女と、ポッと出の男に都合よく解釈し直されて、観客からの喝采を浴びるようなことって…そりゃ、暴れたくなるわな!

途中から、ハンサム男エドワードが二人のことを殺してしまわないかとドキドキしていたものの、それは杞憂でした。
ま、別の人が死ぬわけですが
なぜエドワードが作業療法士を刺したのかと考えていたのですが、イングリッドのお腹を見てあの二人は子作りしたってことだもんな?俺には無理だぜといった具合に二人のことを嘲笑した直後に刺しているので、同じように笑われた過去の自分と、笑ってきたあの時のイングリッドと、笑われようとそんなものも跳ね除けてしまうほどのオズワルドと、みんな、彼は自分の手で捨てたかった、無くしたかったのかなという解釈をしました。

他にも印象に残っているシーンはいくつかあって…
オズワルドに出会う前にも、出会ってからもスタチューパフォーマーが出てきます。
エドワードは、スタチューを何をするでも言うでもなくじーーーーっと見つめてその場を去ります。が、画面右奥でスタチューパフォーマーがその首を動かして去りゆくエドワードをじろっと見返してきます。あれは、なんだか言いようのない怖さがありました。動きが早くて驚いただけではなく、物言いたげなスタチューパフォーマーの表情に率直に言って不快になりました。あれはなんだったのだろうか。
スタチューパフォーマーともあろう芸人が思わず動いてしまうほどのエドワードって一体…

そして物語は進んで、オズワルドとエドワードが二人で歩いているシーンでも、オズワルドがあれ見ろよと指さした先にはかつてのスタチューパフォーマーがいました。
オズワルドは“銅像”を指さして笑っていましたが、エドワードは相変わらず煮え切らない表情をしています。
わざわざ二度もこの“銅像”が登場したことには何か明確な意図があるとは思うのですが…

オズワルド登場後は、特にセリフがあるわけではないひたすら虚無っているエドワードが度々映し出されるのですが、その顔がまぁ、いい!
セバスチャンスタン、サイコー!!!!!こっちまで同じ顔になって物思いに耽っちゃう
確か、段々引きになっていくカメラワークなはずで、それが更に、一人取り残されていく(ような気持がしている)エドワードという構図を引き立ててくるのよな~ ひゃ~

ということで、かなり長くなってしまいましたし、まだまだ書けていないこともありますが
最後に、映画のラストシーンについて書いて終わることとします。

久しぶりの再会を喜びエドワード、イングリッド、オズワルドの三人はレストランで食事をする運びになったわけですが、マシンガントークをしている二人に対して、またもや何を考えているか分からないエドワードがそこにはいて
メニューをなかなか決められないエドワードも相変わらずだし、
しれっとオズワルドはエドワードのことを「エドワード」と呼ぶし…
いつの間に??とは思いつつ、オズワルドによるこの映画最後の台詞
「何も変わらないね」に相応しい、何も変わっていない“エドワード”がいるという点はとてもよかった。鈍い反応をしつつどこか薄ら笑いをしているエドワードを見て少し救われた気持ちになりましたよ

「変わらない」と言ってきたオズワルドのその後と言ったらよく分からないカルトにイングリッドと共にハマり、じきにその村へと旅立つとのことで、
昔とは「変わった」二人が行き着いた先がその有様だったことは、やはりエドワード擁護隊一員としては所詮そんなもんか。と安堵に似た気持ちにも、ッフと鼻で笑いもしました。監督(脚本も担当)、最後はnot鬼脚本をありがとう。

ところで最後に一人で食事をしていた喪服を着た女性というのは一体どなたでしたっけ?なーんか見たことあるとも思いつつ誰だか思い出すことはできず、最後の最後で差し込まれていて彼女を見て表情が明るくなるエドワードを見るに“何かあった”というのは分かるものの如何せん結びつかずとても悔しい!どなたか分かる方がいたらぜひコメントで教えてください。お願いします!


「顔」と題名にも銘打っているし、ルッキズム批判風刺の映画なのかな?と思わせつつ、直接的にそれを扱うのではなく、
あくまで人の一番外側にある顔からどんどんと内面・性格・感情へとベクトルを向けてさまざまな欲望や葛藤を露わにしていく様は、いち観客としてもあちこちで思い当たる節があり、エドワードの暴走についていけなくなったりしつつも、とても面白く見終えました。これだけ感想を書いている時点でいかほどかはお分かりいただけることでしょう。

いや~面白かった。また見て、追記するぞ~
最後までお読みいただきありがとうございました。嬉しいです。


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