マウスピース矯正、十五年後のもう一度
2015年3月。
人生で二度目の歯科矯正が、静かに始まった。
インビザラインによる
マウスピース矯正だった。
一度目の矯正は、
それより十五年ほど前にさかのぼる。
当時は、
ワイヤーによる表側矯正。
期間は、たしか二年半ほど。
月に一度、
ワイヤーを締め直すたびに、
歯に伝わる強い痛み。
その後、数日続く食事のしづらさ。
口の中の粘膜にできる、細かな傷。
正直に言えば、
想像していた以上につらかった。
長年、歯列矯正に携わってきた先生は、
あるとき、こう言った。
「私が見てきた中で、
その痛がり方は、ベスト3に入ります。
あなたは、痛みに対する感受性が、かなり高いほうですね」
苦い思い出として、
その言葉は今も残っている。
「8020運動」という言葉を耳にして以来、
自分も、そこにたどり着きたいと思っていた。
人生に、遅すぎるということはない。
そう言い聞かせて始めた、
少し遅めの年齢での最初の矯正。
やがて終わりのときを迎え、
鏡に映る歯並びを見て、
素直に満足した。
これが、自分にとっての最適解だったのか、と。
そう思っていた。
それからしばらくして。
保定期間も落ち着いてきた、
ある定期検診の日。
先生は、淡々とこう話した。
「一度目は、大きく歯を動かしました。
どんなに気をつけていても、
後戻りは、どうしても、少しずつ起こります」
「最終的には、
今の七割くらいのところに落ち着くでしょう」
「二度目の矯正をしたほうがいい時が、
来るかもしれません。
ただし、これは“必ず”ではありません」
「二回目をすると、
そこからの後戻りは、
さらに少なくなります」
その言葉は、
当時の自分の耳を、
静かに通り過ぎていった。
もう十分だ。
二度と、
あんな痛い思いをしてまで、
やるものではない。
お金の問題も、もちろんあった。
それから、十五年が経った。
その間に、
口の中は、少しずつ整えられていった。
詰め物だった銀歯を、
すべて白いセラミックに変えた。
当時、
被せ物はなく、
詰め物はいくつか入っていた。
ラバーダムをかけ、
マイクロスコープで、
丁寧に処置してくれる歯科を見つけ、
一つずつ、
順を追って、直していった。
保険外の、高価な治療。
生活を切り詰めながら、
少しずつ、少しずつ。
なぜ、そこまでしたのか。
一度、
痛い思いをしてでも歯並びを整えたことが、
自分を、次の段階へと連れていった。
歯の状態を、
できるところまで整えたい。
そんな気持ちが、
いつの間にか、育っていた。
あるとき、
その信頼している歯科医から、
こう言われた。
「以前、矯正されたところで、
再矯正の予定はありませんか」
「少し、気になっている点があります」
十五年のあいだに、
わずかずつ進んだ後戻りを、
見てきた上での言葉だった。
ちょうどその頃、
わずかなお金を貯めていた。
そう遠くない時期に、店を始めようと、
準備していたからだ。
迷いはあった。
それでも、
そのお金を、すべて再矯正に使おうと決めた。
今でも、
なぜそう決断したのかは、
よくわからない。
ただ、
いったん回り道をしてでも、
その思いが勝った。
それだけのことだった。
十年前、
一度目の矯正の最後の診察で、
こう言われていたことを思い出した。
「再矯正をするなら、
値引き金額で行います」
「その場合は、
マウスピース矯正で十分な範囲です」
その保証期限が、
迫っていたこと。
そして、
マウスピース矯正という方法の、
負担の少なさ。
その二つが、自分の背中を押した。
決めたあとの行動は、早かった。
そこから、二度目の矯正の
初回カウンセリングが始まった。
精密検査の二週間後、
出された診断結果は、
マウスピース交換、16回。
想像していたよりも、
ずっと短かった。
10日に一度のペースで、
およそ5か月。
正直、拍子抜けした。
一年半から二年は、
かかると思っていたからだ。
説明のあと、
大きな画面で、
歯の動きのシミュレーションを見せられた。
1回目から16回目まで、
歯がどう動いていくのか、そのすべて。
とても分かりやすく、
納得できる内容だった。
仕上がりの噛み合わせが、
一度目の矯正を終えたときより、
さらに深くなっていた点も、気に入った。
それが、
最後の一押しになった。
スタートは、
驚くほど静かだった。
違和感を感じたのは、最初だけ。
痛みは、ほとんどない。
ワイヤー矯正と比べると、
比べること自体が、
少し申し訳ないくらいだった。
取り外して食事ができ、
歯磨きができる。
最初だけ、
装置の外し方に戸惑ったが、
すぐに慣れた。
気づけば、
16回目まで、あっという間だった。
12回目を終えたあたりから、
ひとつ、感じていたことがあった。
前歯は、いい感じだ。
けれど、
マウスピースの厚みがある奥歯付近の噛み合わせが、
少しずつ、
シミュレーション通りではなくなってきている、
という感覚。
そこに、
わずかな戸惑いも、混じっていた。
「...本当にこれで終わりなのかな」
そんな問いが、残るようになった。
そして、
16回目が、
無事に終わったあとの診察。
その結果、
さらに10回分、進めてみるという選択肢が示された。
診察室で、先生はこう言った。
「もちろん、
ここで終わるという選択肢もありますよ」
追加分も、
最初に支払った金額の範囲内だった。
やらない、という選択はなかった。
ここまで来て、
中途半端で終わらせる理由が、
自分の中に見当たらなかった。
交換のペースは、
これまでの10日に1回ではなく、
7日から9日程度でもいい、
という説明だった。
それも、
自分の判断で決めていい、と。
実際に進めてみて、
感じていたのは、
7日目では、
まだ少し、装着感が強い。
わずかに、早い感じが残る。
8日目。
これなら、悪くない。
でも、
9日目は、もっといい。
年齢。
口の中の状態。
生活のリズム。
人それぞれに、
ちょうどいい場所があるのだと思った。
自分で決めていい、
というのは、
思っていた以上に、気が楽だった。
そうして進めた、
追加の10回も、
気がつけば、
あっという間に終わっていた。
正直な感覚としては、
「もう終わったのか」
というものだった。
最後の一枚になる頃には、
名残惜しさのような感情さえ、芽生えていた。
それは、
最初の16枚が終わるときには、
なかったものだった。
最初のスタートから、
わずか7か月。
16回と、
追加の10回。
合わせて26回のマウスピースは、
静かに、
役目を終えた。
厳密に言えば、
奥歯付近には、
ほんのわずか、
整いきっていない部分も残っていた。
それでも、
「終了として問題ない」
と言える状態だった。
先生は、静かにこう言った。
「マウスピースの、唯一の弱点は、
厚みが重なる奥歯なんですよね」
「でも、保定装置を使いながら、
奥歯がいい位置に収まることもあります」
「歯は、
この先も、
ずっと、
わずかに動き続けますから」
そこから、
保定期間に入った。
柔らかい素材だった
矯正用のマウスピースとは違い、
今度は、
硬く、
しっかりした装置だった。
最初は、
かなりの違和感があった。
でも、
それも、
いつの間にか消えていた。
今では、
付けていることを
忘れている時間の方が長い。
実は、
この保定装置は、
インビザラインのものではなかった。
自分は、
できれば同じものを、
と思っていた。
けれど、
先生は、
矯正歯科としての判断で、
より安定性が高く、
長く使える、
クリニック独自の装置を勧めてくれた。
その判断を、
自分は信じることにした。
使い始めて、
もうすぐ1か月になる。
すでに、日常の中に、
すっかり溶け込んでいる。
不自由を感じたことがあるかと聞かれたら、
自分は、こう答える。
「ゼロです」と。
これが、
自分にとっての、
最後の矯正だった。
それが本当にそうだったのかは、
きっと、
次の15年後にわかる。
(2026年1月末 記す)
