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28.アンビバレントな歌への自称ラカン派の一意見[Mine or Yours]

X.comにて垂れ流したpostについて、これだけだとちょっと表面的すぎ(つまり言い足りない!)な気がしたので、Noteにてラカン派的な解釈をちょこちょこ入れて意見を書くことにした。
すでにpostにて宇多田ファンであることを事実上表明しているように、相当に宇多田ヒカルさん寄りであることをお断り申し上げる。ごめんね。

宇多田ヒカルさんの歌が好きで、漏れ聞く様々な葛藤(おそらくラカン派精神分析したみたい?)や挑戦(最近の話題では、CERNとかびっくりでした)に好意的なタイプの人間の考えとお断りした上で、 夫婦別姓について「賛成している」ように直接的に抜き出せる箇所について述べる。
私は、おそらく実際はシニカルな態度を夫婦別姓について取っているのではないかと受け取った。
そして結論を先取りするならば、この歌は「聴き手によってその貌を変える」ように歌詞が選ばれているのではないかと考えた。

歌の音楽的な構成だとか、雰囲気は何系だとかといった考えは(私があまりジャンルを知らないもの知らずのため)この際置いておくことにする。
つまり、歌詞構成だけ見ることにする。

この新曲、[Mine or Yours]の歌詞について俯瞰的に眺めると、「誰の視点の言葉か」あえてはっきりせず、独り言のようにも、会話のようにも聞こえる作りになっていることが分かる。
「大切な人を泣かせた自分自身を軽蔑しつつ、慰めている」ようにも聞こえるし、「独り言とパートナーとの会話が交互に出てくる」とも言えるのである。
この時点で「一貫した人格、自我」というものはなく、時代や場所、空気、そして価値観によって「聴き手が選ぶことが出来る」ように作られている。

ラカンの有名なセミネール『《盗まれた手紙》についてのセミネール』の最後のページの有名な言葉に(何度も語っていることだけど)「手紙は宛先に届く」というものがある。
そしてこの言葉には「受信機から送信機に逆向きに」という言葉も付け加えられている。
この言葉の意味としては非常に様々な解釈の方法があるわけだが、今回はひとまず「メッセージは受け取った人こそ宛先である」ことと「メッセージは誰かに届く前に、発した主体に逆向きになって届いている」こととして考えたい。
特に後者がこの新曲に対する人々の態度を見るに重要な重みを持つことに注意を向けたい。

その前提を使うと、この新曲の歌詞が「聴き手がその立場、形成した自身の法を基にして、歌詞の主体像や宛先を自由に選べる(つまり、自由に受け取ることができる/自分こそが宛先だと確信できる)」ように作られたおかげで、「聴き手の欲望」を剥きだしにさらけ出す「光」として、あるいは、「まなざし」として働き、様々な聴き手の反応を喚起させたことが分かる(まさしく、手紙は宛先に届く)。
そして、X.comに渦巻く意見を見るに、「宇多田さんは夫婦別姓に賛成である」と捉えて「否定」「肯定」を述べた人々が多いようであった。
しかし、ここで大切なのは「宇多田さんは夫婦別姓に賛成とも反対ともどちらにも取れるように、両義的な歌詞を込めた」点にある。
両義的な歌詞をどちらに、あるいはどちらでもなく受け取ることが出来るようにされている時、そこから生まれる反応というものはどのように語っても適法であるがゆえに、「受け取り手の属性、常識、価値観、欲望」が色濃く反映された「自己紹介」が最も気持ちがよく楽な語りとなる。
つまりはっきり申し上げるが、夫婦別姓に賛成や反対などと喧々囂々と述べた方々は「新曲の歌詞を聞いているのではなく、歌詞に唄わされている」のである。

例えば歌詞の中には、
「何かを守るためにはまず自分を大事にしないといけない」
「何かを選ぶことは、それ以外を選ばずに失ってしまうこと」
「不安も捉え方次第で魅惑のスパイスになる」
「自由に浸り慣れるほど、不自由に囚われる。そして反復する(だからコーヒー、緑茶、いつものという歌詞に繋がっていると思われる)」
というように、全く逆の意味がひとつのセンテンスに込められており、両義的であることが更に強調されていた。

「それが意味するものの取り消しを求める」ように歌詞が配置されているのは、どのような効果があるのかと言えば、人の欲望を喚起するためであろう。
ラカンはかつて、人の欲望を喚起するには、「言葉を提示しつつ、その言葉が意味するものをその都度取り消す」ことが、いや、たったこれだけの仕草で十分だと言ったという。
終わりまでつづく前言撤回的な歌詞、それによって生まれた両義性。
この歌詞の配置をなすことで提示された「両義的でどちらともとれる意味」、意味するところが謎となった「歌詞」がいったい何を意味するだろう?
「そのような謎を提示することで宇多田さんは、私たち=聴き手に何をもたらそうとしているのか?」

この振る舞いによって、歌詞の意味は彼方へと退き、私たち聴き手が「おのれの欲望をそうさせられていると知らずに唄ってしまう」ように導かれているのである。

そしてこのような「欲望の亢進」を果たすように作られ、意味が両義的になっている歌詞の全体の中で、果たして夫婦別姓の箇所だけ、「両義的」でないと言えるのだろうか?
「夫婦別姓はいつになったらOK?」だけが、そのまま、夫婦別姓肯定と言えるのだろうか?

実は歌詞に語らせられていることに気づかずに、歌詞全体の両義性を無視すれば、歌詞の一部だけ取り出してみて、「宇多田さんは夫婦別姓に肯定である」と述べるのはYES/可能/それ以外にないとなるほかないだろう。
「聴き手に解釈が委ねられている」と気づかなければ、両義性を無視すれば、そのような「常識的な(つまり己の構築してきた法/自分で構築してきた価値観を疑わずに従順的な!)」捉え方をするのは全くおかしいことではない。

しかも、この己の法を疑わずにいる、ということへの異議申し立ては実はすでに歌詞にあったりするのである。
なんと用意周到なことか。

I love making love to you
掛け違えたボタン
一つ一つ外す
恐る恐る

https://uta-net.com/song/372692/

この歌詞の、「ボタンの掛け違えを慎重に外す」はまさしく「自分がこれまで当たり前に、そうあるべきと構築していた法を慎重に吟味し、別の法を、ゆくゆくはかけがえのない幻想に手が届くように手を入れる」という、ラカン派精神分析の進展、あるいは内省などを意味しているだろう(たぶん)。

他にも、一番最初の歌詞、

昨日の僕は、僕が思う僕とはかけ離れていた

https://uta-net.com/song/372692/

すでにこの歌詞に両義性の予告がなされていたことに気づく。
「この歌はある時、ある場所では別の貌を見せるでしょう」と。

歌詞の主体は男か?女か?一人だけか?二人以上か?
時間は過去?現在?未来?
あるいは、直接的に夫婦別姓に賛成?反対?どちらでもない?

両義性のあるフレーズを選びつつ、唐突に嵌入された「夫婦別姓はいつOKになるか?」というのは、「賛成」でも「反対」でも意味が取れることは先に述べたとおりである。
「いつになったら議論が反対で決着するのか?」 「いつになったら議論が賛成で決着するのか?」
どちらでも、あるいはどちらでもなくとも構わなかったのだ。
それは、最初から聴き手に委ねられていたのだ。

どちらに(あるいはどちらでもなく)聞こえたかは、聴き手だけが知っている。
宇多田さんが私たちでないように、私達一人一人は全員違うのだ。
少なくとも私は「もろ手を挙げて賛成。今すぐやれ」と聞こえはしなかった。
無論、その逆にも。
贅言を尽くすなら、「本当に大切なことって、"それ"なの?」のように聞こえたのだ。
ラカンが言うように、「欲望は、いつも他の欲望に向かう」ために。
あるいは、人々が今、夫婦別姓について反対賛成意見を宇多田さんの歌詞に唄わされていることを見て取って、「センセーショナルなことってそんなに大切なの?」とも(これは私への戒めでもありますね)。

宇多田さんの真意はもちろん、本人にしか分からない。
少なくとも分かることは、宇多田さんの歌は私たち聴き手を照らし、そのシルエットが浮かぶように届いたということである。
まさしく「手紙は宛先に届く。受信機から送信機へ逆向きに」。

以上、かなり宇多田さんとラカンに寄った人間の一意見でございました。
このNoteに頷く人も、そうでない人にも「手紙は宛先に届く」ことを信じます。