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『サンフェーデッド』を読む

初めまして、暗視野の顕微鏡です。今回書く文章は『学園アイドルマスター』に登場する篠澤広が歌唱している『サンフェーデッド』の歌詞についての個人的かつ冗長な考察です。もちろんネタバレありで、STEP3、『サンフェーデッド』およびその他コミュを含みますが、それでもよければどうぞご覧ください。

導入ー曲とキャラクター背景の説明ー

th-th-th-th-th-th-things made me who I became today without knowing who made them,
tapes, records, books,
everything I found great was sunfaded.

(https://x.com/hsgwhks/status/1946611287989039521?s=20)

これは「サンフェーデッド」という曲の最後の節で、篠澤広というキャラクターの過去を書いたものである。このキャラクターは海外の大学に飛び級入学できるほどの頭の良さを持っていて、しかしながら彼女は何もかもうまくいってしまうことに虚無を覚え、またとある学園に所属しているアイドルのライブを見て、ままならない日々を送りたい、また自分も可愛くなりたいという願いからその学園に入学している。その中でプロデューサーと出会い、素手でアイドルに挑むために過去を公表せずに持ち前の神秘性を持ってプロデュースし、「ままならない日々」をプロデューサーと送って、一緒に成長していく中でつくられた曲である。
また、曲の背景を少し語ると、この曲を作る付近で篠澤広の過去の経歴(飛び級で大学入学)がバレ始めて、対応としてその過去を公表するとともにアイドルを続けていくという決意表明をした。これをすることで過去の経歴をできるだけアイドルに活かさずにこれからも挑んでいくことになる。
そこでプロデューサーが用意したのがこの曲である。過去がバレてしまったことから、プロデューサーは篠澤広に対してライブで持つ神秘性だけでなく、普段の篠澤広が持つ性質も出していこうと考えた。この曲は、そんな篠澤広の何事にも無策で突っ込んでいくような、灼熱に焼かれるような熱い光景を表している。以下はサンフェーデッドの歌詞である。

あ, 日焼け止め 塗らないままでいたな
あんなにも大きな声が肌すれすれに来ることも,
光は指輪みたいになること, も
いずれ全部 明るい道の秘密のように思い出す.

僕たちは ( いつ出会うだろう? )
出会うときは
僕にとって正しい人の,
僕にとって正しい声でいる.

游ぶ指先や睫毛や
髪留めがあなたたちの姿を覚えている
煌きと暗やみの層に躍り入る僕のことを誰かが見てる
安心して, 僕は帰らない, ほらね

どこでも ああ, 何度でも目を瞑るほど日が差す方で,
僕は言う,
僕は禁じる,
僕は覚える,
僕は慄く,
僕は踊る,
僕は生れる,
僕は褪せる,
僕は判断する.

初星学園 「サンフェーデッド」Official Music Video (HATSUBOSHI GAKUEN - SUNFADED)

サンフェーデッドのほかの歌詞は全て日本語で書かれており、夏の終わりをおもわせるような暑い日差しに灼かれる広が描かれている。また、日本語の歌詞の最後の部分の僕は言う,僕は禁じる,僕は覚える,僕は慄く,僕は踊る,僕は生れる,僕は褪せる,僕は判断する.の部分は篠澤広の魅力を表しているのだと考えられる。

篠澤広の魅力と英語歌詞の位置づけ

彼女の魅力について、ゲーム内で語られているものは次のようなものがある。見る人によって違う魅力、それら全て魅力であり、そのどれでも無いかもしれない、分からないという不思議さ、曖昧さも魅力となる。
そんな多様な魅力を見つけた彼女であるが、アイドルになる前、特に直前付近の彼女は自身に魅力が感じられなかったのだと思われる。正確に言えば、彼女の魅力ではなく、彼女の人生に対する魅力が欠けていたということである。それを端的に表したのが最初に述べた英語の歌詞ではないかと考えられる。おそらく彼女は自身の専攻していた分野に関して今も好き、なのでは無いかと自分は思っている。しかし、彼女は何をやっても、すぐ出来てしまう。皆からは、ずっと褒められるだけ。そんな状況では好きな物も、好きだった気持ちですら色褪せてしまう。この歌詞はそんなアイドルになる前の心境を語っているものだと考えられる。
ただし、英語の部分の歌詞は今の篠澤広が語るものではなく、過去の篠澤広の記憶ではないかともとれる。英語であるということの意味もここに集約されるのだと考えられる。彼女にとって、今は、アイドルになって好きを再び感じられるようになった今では、過去の好きだった記憶は色づいているはずである。そして、今、篠澤広は色褪せてしまったという気持ちを全部、明るい道の秘密のように思い出しているのだと考えられる。実際、サンフェーデッドのゲーム内ライブにおいて、最後は「音源として」英語の歌詞が流れている状態であり、篠澤広はライブではこの部分を「歌って」いない。また、英語の歌詞はMVの動画に付随されている歌詞カードにおいてもゲーム内ライブの歌詞表示においても表示されていない。少し難しいが、プロデューサーや長谷川白紙(作曲者)はこの部分を「今の」篠澤広が歌う部分ではないと考えているのであろう。つまりは今の広にとってこの歌詞は解釈不一致なのだ。だからこそ愛おしい。だからこそ歌わずとも曲に入れる。

英語歌詞内容の考察

th-th-th-th-th-th-things made me who I became today without knowing who made them,
tapes, records, books,
everything I found great was sunfaded.

(https://x.com/hsgwhks/status/1946611287989039521?s=20)

次に、英語部分の歌詞の考察に入ろうと思う。ここについて考えるために最も重要なことは、今の篠澤広である。この学園に入学することで、彼女は「アイドル」を、アイドルになることを「選んだ」。しかし、過去の篠澤広は、その学問との最初の出会いはどうだったか分からないが、大学に飛び級したことも、そこで学んでいたという事実も、全て「積み重なった自分」に流されるまま進んでしまったがゆえの道だったのではないかと考えられる。
彼女は天才であった。天才であるが故に1度見た事はすぐ覚えて、ずっと忘れない。篠澤広のこの記憶力はゲーム内、ミニライブ内でもいくつか見ることができる。これは倉本千奈の「Campus mode!!」の曲コミュで語られていたことだが、篠澤広はファンの顔と名前を1度見ただけで覚えてしまうらしい。先日の12/21の篠澤広誕生日ミニライブにおけるMCにおいても、次のようにファンとの交流という思い出を、ずっと覚えていると宣言している。
「今日は、はじめましての人も、けっこういる、ね。ふふ、うれしい。顔を上げて。私を見て。このライブの始まりを、私とあなたの出会いを、ずっと忘れないでいて。私も、あなたのこと、ずっと覚えてる、よ。」
このように、彼女はこと学問においては神にも等しい存在だったのだろう。先程も述べたが、始まりは分からないが、彼女はどういう訳か学問を「選んだ」。しかし、彼女の異質さが浮き彫りになるにつれて、彼女は何をしても褒められるようになり、挫折を失い、それが挫折の原因になったのだと考えられる。だから、つまらない。

テープ、レコード、本、これらは全て知識や蓄積を象徴するような物である。最初は広は知識を手に入れることが楽しかったのであろう。それらが、海外の大学に飛び級入学した「篠澤広」を作り出してきた。しかし、学問に関して何をしても褒められるようになってしまい、そこからは知識の蓄積も楽しくない。誰がその知識を作ったのかすらも興味がわかない。楽しかったあの過去は、全て色褪せてしまった。

彼女が今思っていることは、こういう事なのだろう。最初のth-th-th-th-th-th-の部分は、過去の篠澤広の記憶を、テープだったりレコードだったりで再生するということを表しているのだと考えられる。これは篠澤広が歌っておらず音源としてながれていること、歌詞部分、記憶の再生など色々掛かっていることから考えた。
実は、篠澤広は歴史が苦手分野、というか勉強したことがないらしいのだが、英語の歌詞の考察が歴史に触れてこなかった理由にもなってしまっている事が怖い。その事を一切考えずに考察を書いたのに、そのような理由付けになってしまったことが怖い。いったい、篠澤広の制作チームはどこまで考えているのだろうか。

日本語歌詞の考察(あ、日焼け止め~秘密のように思い出す)

このように、英語歌詞の考察について結論がついたところで、次の議題として日本語の歌詞についても考察していこうと思う。せっかく歌詞を4つの部分に分けたのだから、1つずつ触れていこうと思う。まず1つ目の塊についてだが、特に最初の歌詞においてこの曲の方向性を決定づけている。夏なのだ。それも灼熱の日差しが照っている。そんな日なのに日焼け止めを塗っていない、しかも忘れたではなく「塗らないままでいたな」と現在進行形で日差しにあてられているのにまるで他人事のような歌詞によって表現されているのは、公式の解釈において次のようなことらしい。

川村玲奈「ディレクションで、歌い出しの『あ,日焼け止め』あるじゃない。あそこは『大きなライブをした翌日で、楽しすぎて、色々やるの忘れて外出ちゃった、みたいな感じで歌ってください』って言われて」

初星学園放送部 #48 | ASOBI CHANNEL

成程あの夏の日差しに当たるだけでも死んでしまいそうな篠澤広がそうだ日焼け止めを塗らないままでいたなと他人事のように感じたのは、大きなライブを終えたあとだからなのかと。あんなにも大きな声が肌すれすれにくることも。光が指輪みたいになることも。篠澤広はライブで実際に感じた出来事を想起していたのである。この感動は、この実感は、篠澤広本人にしか分からない。だから「秘密」なのであるのかと。そう感じた。
ここで、歌詞の後半の部分である「いずれ全部 明るい道の秘密のように思い出す.」の、思い出している部分は、「今」の篠澤広と「過去」の篠澤広のどちらにおいても適用できると考えられる。まず、今の篠澤広について思い出していることは、「明るい道」の秘密なのであり、今のアイドル道における、私しか知らない感動という秘密なのである。一方、過去の篠澤広について思い出していることは、明るい道の「秘密」なのである。明るい道を歩んでいる彼女にも、秘密はある。そんな秘密が彼女の過去なのである。すなわち、英語部分の歌詞なのである。
だから彼女は、ままならない日々を送りたい。今度こそ、心を震わせてみたい。そんな事を思っているのかもしれない。

ここで、コントラストを見た、或いは聴いた人ならわかると思うが、篠澤広は、篠澤広の曲は、過去と今のコントラストをテーマにしていることが多い。コントラストは過去を比重重めにした曲であり、サンフェーデッドは今を比重重めにした曲である。なので、コントラストは篠澤広の曲にとっては満を持して英語の歌詞が多く入れられている曲になっている。一方、サンフェーデッドは英語の歌詞を最後のほんの一欠片だけにして、その他は日本語の歌詞のみで構成されている曲になっている。このような対比は今後の考察においてもよく出てくるのでこれ以降を読むときの参考にしてくれると幸いである。

日本語歌詞の考察(僕たちは~正しい声でいる)

次に、2つ目の塊について考察していく。この塊は、大きなテーマとして、篠澤広のファンへの向き合い方を宣言するということが含まれていると考えられる。「いつ出会うことになるのかは分からないが、もし私と出会うことになったならば、私にとって正しい人の、正しい声でいるのだ」ということである。これは最初に背景として述べたアイドル宣言と合致している。では、篠澤広にとっての「正しい人」とは誰なのであろうか。それは篠澤広のプロデューサー、つまり自分たちなのであろう。そう、この塊の裏テーマとしてプロデューサーの篠澤広に対するエゴのようなものが含まれていると考えられるのだ。

「正しい人」について話すために、ここでまた背景知識を加える。サンフェーデッドの曲が実装された際に同時登場した親愛度エピソードにおいてテーマとなったのが、「篠澤広が想定しているアイドル像と今の篠澤広のアイドル像との乖離」なのである。彼女が想定しているアイドル像はかわいいアイドルであるが、今は神秘的、偶像崇拝の対象のような神性を持ったアイドルなのである。このテーマに対する回答が、
ファンたちは確かに神性を持ったアイドルとしても篠澤広を見ているが、可愛いという要素を持ったアイドルとして篠澤広を見ているファンも少数ながら存在している。だから、もっとファンを増やして可愛いと思ってくれるファンの母数を増やしていこう
というものである。これは先程にも述べたような彼女の魅力に関する議論と似たようなものだとわかる。ただ、プロデューサーが言っていることはこのようにも取れるのだ。
篠澤広の特大の武器は神性なのだから、その武器を捨てないで欲しい
ということだ。というのも、可愛いアイドルを求めるのなら神性という要素は可愛いと対極なのだから捨てるべき要素であると考えられるのだ。それをプロデューサーは、可愛いと思ってくれるファンを増やしたいのなら、そのような曲も披露しましょうといったように、まるで神性を捨てないでくれと懇願しているような方法で解決しようとしているのだ。ここにプロデューサーのエゴが出てしまっている。

しかし、篠澤広は分かっている。プロデューサーは私の選択肢を潰したくないのだと。私が今、「選ぶ」ことを一番重要視しているからこそ懇願しているのだと。ならば、応えてみせよう。あなたにとって、「篠澤広」にとって、正しい声でいよう。だって、「アイドル・篠澤広」は私とプロデューサーの共同作品だから。

ここで、篠澤広と、篠澤広にとっての「正しい人」、プロデューサーとの共同作品という表現は、今回の親愛度エピソードにおいて登場する重要人物の考え方である。その人物はowlという、篠澤広が通っている学園のOBの先輩であり、篠澤広がアイドルになりたいと思うきっかけとなった、「可愛い」アイドルである。篠澤広の尊敬する先輩アイドルなのである。しかし、彼女も昔は素の自分とのジレンマ、及び自分が重視している歌詞をファンが褒めてくれないという悩みに悩まされていた人物だと明らかになったのだ。そのジレンマの解決方法として、owlを自分のアバターであり、owlに関わる人達との共同作品であると考え、ライブを終える度にその作品を褒め称える機会として飲み会の場を設けることにしたのだ。これで、彼女は満足できるようになった。そして、ファンが増えるにつれて歌詞を褒めてくれる層も少しずつ増え始めて軌道に乗ったのだと彼女は教えてくれた。そんな彼女の言葉もあって、プロデューサーのエゴも受け入れられたのだと自分は考えた。

日本語歌詞の考察(游ぶ指先~安心して, 僕は帰らない, ほらね)

今度は、3個目の塊について考察していく。これは紛れもなく、篠澤広とファンとの交流であり、これもまた篠澤広というアイドルのアイドル宣言であると考えられる。まず、游ぶ指先、睫毛、髪留めは篠澤広のメタファーとなっている。睫毛、髪留めに関しては彼女の特徴として何度も描かれているものであり、あなた達を見ている「目」、また「あなた達」を繋ぐものである、とこれらに関してはすぐにわかるが、問題は「游ぶ」指先である。

まず、ここで「遊ぶ」ではなく「游ぶ」を選んでいることに関して、游のみが持つ意味を調べることによって考察する。游のみが持つ意味の中でも、「歩き回る。旅行する。」という意味は篠澤広の性質のようなものに合致するものがあると考えられる。まず、ゲームにおける彼女の持ち物として、「みちくさ研究ノート」というものがある。彼女の趣味として観葉植物を育てることというものがあり、その一環、また研究者だった頃のくせとしてそのようなみちくさをスケッチして、考察するノートが存在しているのだ。このノートが書かれるようになったのは、外を歩く機会が増えたからであると考えられる。実は、彼女は吹けば飛ぶほどの弱い身体の持ち主で、病気などは掛かっていない健康体なのにも関わらず、通学もままならないほどである。プロデューサーがついて、彼女に求めたことは基礎体力の向上である。エピソードとして見ることができるのは食事改善だったり片足立ちだったりであるが、その中に学園の周りの散歩のようなものが含まれていてもおかしくはない。その散歩の道すがら、そのノートが書かれていたのだと解釈することもできる。

そうでなくとも、「メクルメ」という曲にも旅をする要素が含まれている。この曲の歌詞に

季節を待ちわびたりして満ち足りないまま独りでここに居た 旅した 春夏秋また 眠たくなるまま 別世界 孵化待っているベータ
季節は待ちわびたと今さざめき出し解く秘密のフィロソフィア 旅した 春夏秋また 目の眼差すまま 新世界 孵化/開花する銀河

というものがある。この歌詞から考えると、昔の篠澤広は物足りない現状から色々な趣味足り得るものを見つけようと春夏秋関係なくずっと「旅」をしていて、「旅」が終わってアイドルを見つけた今の篠澤広はアイドルという新しい旅を始めて春、夏、秋と季節が過ぎ去る度に自分の「楽しい」がどんどん増えていき、世界が色付いていっていると解釈できる。このように、篠澤広は物理的にも精神的にも「旅」をしているアイドルである。さらに、指先という要素に注目してみると、次のことが考えられる。篠澤広の曲の振り付けは、篠澤広が途中で倒れないようにコンテンポラリーダンスのような、もしくは舞のような優雅で振りが激しくない振り付けになることが多い。特に、コントラストだったりサンフェーデッドの振り付けにおいては指先まで意識させるような振り付けが多く存在している。従って、「游ぶ指先」はこのような広特有の振り付けにも現れているのではないかと考えられ、「游ぶ指先」は広がファンに披露するために作られた曲の推移という旅を表して、その旅の中で出逢ったファンを覚えているというように繋げることができる。

そんなメタファーによって表される私は、あなた達のことを文字通り全て覚えていて、忘れることは無い。アイドルという、篠澤広にとって煌めきと暗闇を両方孕みうる層に魅入られた私のことを私のファンの誰かがみている。安心して。私はアイドルから帰らないよ。ほらね。

ということであると考えられる。ここでいう「ほらね。」は、篠澤広の表情なのであろう。どれだけ楽しそうな顔をしているのだろうか。どれだけ満足をしたような姿をしているのだろうか。それは言うまでもないだろう。ほら、ね。

日本語歌詞の考察(どこでも~僕は判断する.)

ということで、4つ目の塊の考察をしていく。ここでは、彼女が見つけたアイドルという光で、ライブという陽での自己表現を表していると考えられる。ここで、日が差す方でという表現は、アイドルという趣味だったり、ライブという場だったりを表現しているとわかるが、ここで、どこでも、という表現に引っかかる。

彼女は「どこでも」アイドルでいられるような人ではない。まず体力が持たないし、彼女はプロデューサーの事が大分好きである。そのため、どこでもという表現は広に対して用いるべき言葉では無い。では、何に対して用いるかと言うと、ファンに対してであると考えられる。ファンがどこにいても、何度でも、ということである。そもそも、篠澤広がアイドルに魅入られたきっかけは学園における最大規模の大会でパフォーマンスをするowl先輩を「海外で」見たことである。このことは篠澤広の「Campus mode!!」の曲イラストによって明かされており、その際にかなりダボダボな白衣を着ていたことからその時期の彼女は研究者であり、研究室に篭もりっぱなしであったことが推測される。そんな彼女でも、海外という場所でも、アイドルという陽は差したのだ。それと同じ経験をしてもらいたいまではいかないが、私と同じようにその場にいなかったとしても、どこにいても私のパフォーマンスはあなたに届けることが出来る。私という陽を今度はあなたに、差すことができるというふうに解釈することができる。配信でパフォーマンスを見ることは巻き戻し機能などを用いて「何度でも」見ることもできる。

ここで、この塊における一番目立つ部分について考える。まず、一区切り一区切りで「僕は」という主語を導入していることは篠澤広の主体性の強調と捉えることができる。これもまた「選ぶ」という語句の表現足りうるものである。ここで気をつけたいのは、篠澤広に初めて提供された曲である「光景」においては「選ぶ」という語句に対して「選ぶ わたしが」というように「」という助詞を用いているのに対してサンフェーデッドでは「」という助詞を用いているという点である。一般的に、「が」という助詞は新情報に対して用いられるものであるが、「は」という助詞は旧情報に対して用いられるものである。この点で見ると、光景は最初の曲で、篠澤広がアイドルを選んだことを表現する曲であるため、新情報であると解釈でき、サンフェーデッドでは篠澤広がライブ、もしくはライブ直前で、広が「何度でも」ファンに対して、アイドルとして、ライブを行うという曲となるため旧情報足りうると解釈できる。

ここで、実は「何度でも」という表現に限ってはファンと篠澤広の両方に対して使うことができるのだ。篠澤広とそのファンは「何度でも」という表現においてお互いに通じ合うことができるため、「何度でも」の前に「ああ,」と詠嘆しているのであろう。次に、篠澤広が日が差す方でしている表現について考える。

まず、表現をまとめると、言う、禁じる、覚える、慄く、踊る、生れる、褪せる、判断するという8つの表現が存在する。ここで一番引っかかるのは禁じるという表現だ。今までの曲の中で篠澤広が禁じているような表現があるものを探してみると、次のものが挙げられる。まず、コントラストの
「わからない?向いてない?方位磁針 壊して 真っ暗な道を進んでみるの」
という表現において、方位磁針という標として表現されるようなものを「壊す」ことは、決められた道を行くことを禁じられているのと同じであると考えられる。これは、最初の方に述べたように、篠澤広の何事にも無策で突っ込んでいくような、灼熱に焼かれるような熱い光景をみんなと共有したいという広の願い、またそんな光景を皆にも味わってもらいたいというプロデューサーの願いが含まれていると考えられる。

また、コンテンポラリのダンスという曲においても、禁じることを匂わせるようなフレーズがいくつか出ている。

「一知半解でも奇奇怪怪でも
怒っちゃわないように冷静に
意図しない事態に遭いたいな
理解の差異を愛し合いたいな」
「無根無蔕でも孤立無援でも
焦っちゃわないように着実に
思い思いの問いを立てといて
望みのものを取りに行きたいね」

という歌詞だ。これらは篠澤広自身に対する禁止という側面が大きい。というのも、この曲は篠澤広という人物の等身大の姿を見せるための曲としてリリースされている。これは、篠澤広が神秘性、神性だけでなく「かわいい」アイドルでもあることをみんなに共有したいが為の禁じるなのであろうと解釈できる。このように、禁じるひとつとってもファンに与える印象は大きく異なる。そんな大きな陽があと7個も存在しているため、篠澤広にとってアイドルは永遠に感じられるほど長く続けられる「趣味」であると解釈できる。

次に気になるのは、褪せるという表現である。褪せるという表現は、ことサンフェーデッドにおいてとても重要であると言える。そもそもサンフェーデッドが色褪せると言ったような意味を持っており、「僕は」褪せるという表現に強い意思を持たせている。篠澤広は褪せるという経験を知っている。しかし、篠澤広は褪せることを「禁じ」はしない。褪せたように見える人がいる事を止めることができないと分かっているのだ。それでも、褪せるまで見てくれたファンに対しては誠実にいたいという意思表示であると感じられた。

また、生れるという表現も気になる。生まれるではなく生れるという表現を使うのは篠澤広の学者性を示したものであるとわかるが、そもそも生れるとはなんだろうか。この答えにおいても「何度でも」という表現が関係していると考えられる。ファンにとって、篠澤広はライブにおいて「何度でも」生れるのだ。それぞれの曲が全く違う世界観を表現している篠澤広はライブの度に違う篠澤広として生れるのだ。

あなたがどこにいても、ああ、何度でも、私はアイドルとしてあなたに言う。私はあなたが決められた道を行くことを私と一緒に禁じる。私はあなたのことを覚える。私は無茶な、ままならないライブ構成に慄く。それでも私は踊る。そして私は「篠澤広」として何度でも生れる。私は色褪せる。その度、私は「アイドル」として判断する。

全体まとめ

ここまでで日本語、英語の歌詞について述べてきたが、最後にまとめて終わることにする。

篠澤広は、主体性を失って「好き」が色褪せてしまった。だから、また夢中になれるものを探して「旅」をした。そこで出会ったアイドルを「選び」、アイドルという灼熱の陽に灼かれながら、それでも私は「篠澤広」としてどこでも、何度でも生まれ続ける。


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