恋の終わりによせて | 1ST KISS
坂元裕二の書く恋愛は、いつだって終わりから始まる。大豆田とわ子は1話で三人の男が全員元夫だし、スイッチの円と直は別れてるし、カルテットの巻夫婦は破綻していたし、花束みたいな恋をしたの絹と麦は次の恋でイヤフォンを分け合わない。坂元裕二の世界において、恋はいつだって終わるし、終わったからこそ恋という実体を持ってうつくしく儚く愛しく煌めくような気さえする。1ST KISSも、駈とカンナの結婚生活は傍からみるとすっかり破綻していて、カンナのいうところの「仲悪い夫婦みたいじゃん」という言葉がぴったりの、互いに無関心なボールペンが二本並んだ夫婦であるところから始まっている。離婚届を出す直前に死んでしまった駈に対して、カンナが遺影の前で「出してからにしてよね」という。けれど、そんな関係の夫婦だったにもかかわらず、カンナは偶然手にした不思議なタイムリープの力を使って、ふたりの恋の始まりを繰り返し、なんとか駆が死ななかったルートを探し出そうとする……。
やり直す前のカンナと駈の関係はお世辞にも良いとはいえなくて、これまで出てきた坂元裕二の書く離婚夫婦のなかでもとびきり最悪に描かれていたと思う。離婚届にコーヒーの染みをつけたカンナの「大丈夫かなあ」に「大丈夫でしょ」と目も見ずに返事をする駈からわかりやすい愛情は感じ取れない。コーヒーの染みがついていたくらいで不受理になることなんてないことはカンナだって当たり前にわかってる。でもそうやってぽろっと言葉が出てくるカンナの愛嬌を駈はもう受け止められなくなっていて、それが冒頭から切なくて、でも、わかる。わかるよ。世界の透明度が下がっていく感じ。心が戻らない感じ。
その日駈は結局離婚届を出す前に死んでしまうんだけれど、私はあの事故がなければ、駈はきっと離婚届を出したとおもう。きちんとその場で受付してもらえる時間には出すつもりで午後半休を取って、でも市役所に行く前にふたりで暮らした街をひとりで歩いて、いろんなお店によって、きっとカンナと何度も行った店だってあって。そうやって、あの日の駈は終わった恋のことをぼんやりとした解像度で思い出したり、まったく思い出せなかったりしながら、最後には離婚届を出して帰ってきたんだろう。硯駈という人は、そういう誠実さのある人だとおもった。十五年という時間を一緒に過ごした相手と話しあって決めた結論を、自分の感傷で反故にすることなんてできない人だ。それに、駈が最後の日に注文したのはハルキゲニアの本だった(ことが、本を注文させない作戦で判明する)から、離婚したらもう一度好きなことをやる未来を描いていたのかもしれない。もちろん第一線の研究には戻らないだろうけど、離婚を選択したふたりの未来だって悪くないものであって欲しい。そういう人だからこそ、やり直しの世界線では離婚したくないという自分の言葉を十五年守ることができる人でもあると思う。
駈のそれって、外から決してわかりやすくない、でも確かにあるパートナーに対する情だ。事故がなければカンナだって気づかなかった、もう当たり前にありすぎて、複雑になりすぎて、自分で取り出したりしまったりすることもできない他人への気持ち。そして、駈の情があの寄り道に表れていたとするなら、カンナの情は駈が死ぬ危険を冒して他人を助けたことを「家族」として非難するところに感じている。他人からみれば、夫婦関係は破綻していて、離婚届に判まで押した相手に対して「家族が悲しむことをした」なんて、最初は論理としてかなり乱暴な気がしたけれど、私のその"正しさ"って、死んで半年も経ってからわざわざカンナの仕事場にやってきて襟の汚れを指摘する里津と同じくらい外野の視線だ。その割り切れなさがカンナの情なんだろうと思うと、ロープウェイでぐちぐちと若い駈に文句を言って足を踏むカンナの面倒くさい愛嬌を抱きしめたい気持ちになる。やり直した後のカンナと駈も素敵だけれど、ひねくれてしまって、まったく分かりにくくて、愛と呼ぶには冷めていて、無関心とは呼べない執着があって、そういうどうしようもないふたりの関係をもっとみたかった。あの2人にも「テレビ壊れたってまた君からのメール」があったはずだから。でも、解釈の余地が余韻としてじんわり残るくらいが映画として好きだから、やっぱりこれでよかったのかも。
44歳のカンナが29歳の駈に向ける感情が少しずつ恋になっていく情景が夏だったのものすごくよかった。夏のあのみずみずしさとか、生命力とか、そういうものと恋のはじまりがとっても似合うということを知った。
なつかしさとか、わだかまっている44歳の駈への複雑さとか、新鮮なときめきとか、家族を助けたい気持ちとか、そういうものが繰り返し29歳の駈と出会うなかで次第に恋になっていくところは、運命的にもみえるし、必然的にもみえる。何度やり直しても君と恋に落ちるよ、はラブストーリーの定番だけれど、やり直した先にある恋が「44歳のカンナと29歳の駈」なのがめちゃくちゃ良い。44歳のあなたに会うために29歳のカンナと出会うというキラーフレーズで思わず崩れ落ちてしまった。結局、タイムリープの間、カンナは15年前に出会った結婚したら電気を嫌味っぽく消すようになるたったひとりの硯駈に恋をしているのに対して、駈は何度も今この瞬間に初めて出会った44歳のカンナを好きになっているの、同じ恋をしてるようで実は全然同じではなくて、ロマンチックだし切ないし、なのに時々クスッと笑えて、なんかもう観てるあいだはずっと感情が忙しかった。忙しすぎてたぶん時々息するの忘れてた。
……と、思いつつ、もしもこれが男女逆だったら私はこんなに楽しめなかっただろうなとも感じていて、それが「この組み合わせだからよかったね」なのか「この組み合わせだから違和感から目をそらすことができている」なのかはわからない。別に29歳って立派な大人で、その歳の差に外から何かをいうような正義の入り込む余地はない。でもなんとなく現実の権力勾配を無視できなくて複雑な気持ちになったかもなあという程度の、そういう"気持ち"の話ではあるんだけれど。少なくとも、44歳の駈と29歳のカンナの物語だったら映画終わった瞬間に「逆だったらよかったね~」といっただろうなあとは思う。松さんがラジオで「どちら(カンナと駈)をどう(どっちを年上にした状態で進めるか)するか組み合わせがいろいろあるじゃないですか」と言っていたので、その様々なパターンの中でこの組み合わせが私にとって最良だったことだけは確かだ。あと、年の差を意識するようなくだりがいくつか入っていたけれど、ずっと松たか子さん演じるカンナがいきいきとしていて溌剌でエイジズム的な自己卑下が感じられなかったことも、女というジェンダーロールをしょってこの社会に生きているひとりとしてめちゃくちゃ元気が出た。
坂元裕二の書くキャラクターの、変人だけどちゃんとその人のための人生があるところが好きだから、やり直しの十五年を描くときに駈が結局不動産屋に勤めていて研究職についたりしないところとか、意外であり納得であり、彼の十五年が物語の収まりの良さの為ではなく彼のための十五年である気がして好きだなって思った。私たちは冒頭の草野球のくだりで「カンナと駈のすれ違いの発端は駈が夢をあきらめたから」という誘導をされているけれど(花束みたいな恋をしたを観てる人は全員一度はそう解釈したと思う)、不仲になった原因を知らない駈が「俺が好きなものを諦めて一般企業に就職したら二人の仲はぎくしゃくするに違いないから研究をつづけたほうが良い」とはならないもんね。研究職に就いたところで教授との関係性のなかで夢だけを追いかけられる環境じゃないことも示唆されていたし。ついわかりやすい整合性や物語としての口当たりの良さを求めてしまいがちだけれど、こうして(珍しく)考えながら言語化していくとそうではない発見があって楽しい。あと、全くの余談だけれど、部長に嫌われないために嫌々の付き合いで始めた草野球も十五年続けたら立派な趣味だよ。すごいよ駈。
最後に北斗くんの演技のはなし。最後から二度目のタイムリープでカンナに手ひどく振られるシーンの駈の、じわじわと傷ついていく駈の表情があまりにもうつくしくてたまらない気持ちになった。視線と呼吸だけでスクリーンのこちら側の心臓をひと思いに突き刺す芝居だった。北斗くんが困ったり傷ついたりするときの表情がたまらなく好きな自覚があるわけだが、現実世界では決して傷ついてほしくないから、こうしてお芝居の中という安全なところでそんなふうな繊細な部分をみせてもらうことができるのはファンとしてなんという幸福だろうか。ロープウェイに乗ってまぶしい夕焼けに手をかざすところも、パン屋さんをやろうといわれて恋を自覚してしまうところも、どれも決して忘れたくない宝物みたいな一瞬になった。
俳優には、その俳優が演じることでキャラクター設定に更にひとつ奥行きみたいなものが乗っかる人たちがいる、と思っている。(私にとってそれは岡田将生だったり、安藤サクラだったり、市川実日子だったりするんだけど)、松村北斗というひとは、もう、そういう役者なんだなと思った。松村北斗が演じることでしか出せない繊細さや面倒くささや複雑さが硯駈を唯一にしていて、好きな人の作品をそういうふうに感じられて幸せだった。とんでもないぜいたくを言うのなら、「また電気ついてる」の頃の駈とカンナをもっとみせてほしかった気もするけれど、それは大きな期待を込めて次の作品の楽しみにとっておくことにする。
情報解禁された日の朝のことをよく覚えている。カンナが駈と出会ったみたいな、良く晴れた日の、透きとおるうつくしい青空の広がる朝だった。
