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浦島太郎【テーラワーダ仏教のまなざしで読みなおす】 

だれもが知る昔話を、テーラワーダ仏教のまなざし——慈しみ(メッター)と智慧(パンニャー)——で読みなおす試みです。結末にそっと手を入れたものもあります。あなたの知る物語のとなりに置いた、もう一つの読み方としてどうぞ。


むかし海辺の村に浦島太郎という心のやさしい若者がいました。

太郎にはじつは心のどこかに、ずっと思っていることがありました。いつか母を楽にしてやりたい。いつかちゃんと生業(なりわい)を身につけ一人前になりたい。いつかこの胸の奥にあるほんとうに大切なことに向き合いたい。――けれどその「いつか」は、いつも先延ばしにされていました。まだ若い。まだ時間はある。今日でなくても明日がある、と。

ある日、太郎は浜辺でいじめられていた亀を助けました。その亀が恩返しにと太郎を竜宮の城へ誘いました。

竜宮はこの世のものとは思えぬ美しさでした。毎日珍味がふるまわれ、魚たちが舞い音楽が絶えることはありません。えも言われぬ香が漂い、頬をなでる風は心地よく太郎の肌をやさしく包みました。楽しくて心地よくて太郎は時のたつのを忘れました。

ときおり自分の中から「母はだいじょうぶだろうか」「そろそろ戻った方がいいのではないか」という心の声が聞こえてくることもありました。今日なすべきことがあったのではないか、と。けれどその声はうたげの喧騒にかき消されました。まだいい。もう少し楽しんでから。大切なことはいつでもできる、明日がある。太郎はその「明日がある」に甘えつづけました。快楽が時を忘れさせているあいだにも時は一瞬もとまらず流れていたのです。

しかしついに、自分の心の声とうしろめたさに覆われるようになった太郎は、とうとう帰りたいと願い出ました。

けれど乙姫は「もう少しいたらどうでしょう」と誘い、助けた亀も「まだまだ恩をお返ししておりません」と引きとめます。

太郎のうしろめたさは、乙姫と亀の引きとめをかろうじて振り切りました。太郎は竜宮を出ることにしたのです。

乙姫は太郎の決意を見てとると深い憐れみの目で玉手箱を手わたし、けっして開けるなと言いました。

浜辺に戻るとそこは見知らぬ世界が広がっていました。かろうじて、岩壁の山だけが見覚えのある同じ形をしていました。浜辺にいた誰に聞いても太郎のことも太郎の母のことも知りません。いちばん年老いた者がかろうじて語りました。浦島太郎、ああ、百年もまえに海へ出たきり帰らなかった若者がそんな名だったと。

百年。太郎がうたげに酔っていたあいだに地上では百年が流れ去っていたのです。母もとうに世を去っていました。太郎が「いつか楽にしてやりたい」と思っていたその母は「いつか」が訪れることなく逝ってしまっていたのです。

太郎はその事実を目の当たりにし、声も出ないほど泣きました。行く当てのない浦島太郎は浜辺のあたりを魂が抜けたように彷徨っていました。村人からは気が触れた若者がいると噂されるようになりました。浦島太郎の心には絶望と孤独と後悔がかわりばんこに襲ってきては心を捻じりました。そして太郎は、ふと玉手箱のことを思い出しました。決して開けてはいけないと言われた乙姫の言葉を思い出したのです。開けてはいけない。しかし今のこの苦しみを、何とかしてくれるような気がしたのです。

そしてついに――玉手箱の蓋を開けました。白い煙が立ちのぼり、太郎は一瞬にして髪は白く、歯は抜け、背は曲がり、遠くのものが見えないよぼよぼの老人になってしまいました。


老人となった太郎は皺だらけの手を見つめぞっとしました。この苦しみを救ってくれると思っていた玉手箱はさらなる苦しみをもたらしたのです。

腰は曲がり膝は軋み少し歩けば息が切れました。目はかすみ耳は遠くなり、手は小刻みに震えました。昨日まで若くしなやかだった体はもう太郎の言うことを聞きませんでした。――若い日には老いなど遠い他人事だと思っていた。それがこんなにもあっけなくわが身に訪れるとは。そして太郎にはわかりました。この体で生きられる時間はもういくらも残っていない。人の一生の終わりのほんのひと隅に自分は立たされているのだ、と。若さも歳月もこれから何かをなすための時間も――そのすべてを太郎はもう使い果たしたあとでした。もうこの身にいくらの時も残されていない。

そう気づいたとき、竜宮のうたげの日々がよみがえりました。そして太郎ははじめてその正体を知りました。

――あれはわたしの時間(命)を食っていたのだ。

うたげに酔い「まだいい」「明日がある」と先延ばしにしていたあいだ、いちばん大切ななすべきことから目をそらし、そのための時間をどうでもいいことに使い果たしていたのだ。母を楽にすること、一人前になること、この胸の奥のほんとうに大切なこと。そのどれにも手をつけないまま「いつか」と思っているうちに、その時間をうたげが一日また一日と食いつぶしていたのだ。

ふり返れば、うしろには何もなしとげていない空しい歳月が横たわり、前を見れば残された時間はもうわずかしかない。

太郎は悟りました。いちばん恐怖を駆り立てたのは老いたことではありませんでした。なすべきことをなさないまま老いてしまったこと。もうそれをなす時間が残っていないこと。取りかえしがつかないこと。「まだ間に合う」と思えるのは時間があるうちだけ。ほんとうに時間が尽きたとき、そこにあるのは「もう間に合わない」というたった一つの事実だけでした。

老いた太郎は躯体もくずおれ、声にならない老人のかすれ声をあげました。もう一度、あの日に戻ってくれ。今度こそ、うたげに酔わず、なすべきことをなす。時間を無駄にはせぬ。けれど返事をする者はいません。海は青くしずかに寄せては返すばかり。過ぎた歳月は還りません。どれほど乞うても、過去の日々は二度と返ってこないのです。

――なすべきことは、たいてい後回しにされます。まだ若い。まだ時間がある。明日がある。目の前の心地よいことに夢中になっているうちに、なすべきことは「いつか」のむこうへ先延ばしにされる。そしてその「いつか」は、多くの場合来ないのです。

気づいたときには髪は白く、残された時間はわずか。「まだ間に合う」がある日、音もなく「もう間に合わない」に変わっている。その境目を、わたしたちはたいてい宴のさなかで見のがすのです。

浦島太郎が浜辺で乞うたあの「もう一度」は、まだ時間のあるわたしたちの耳にこそ届くように語り継がれてきたのかもしれません。まだ間に合ううちに。ほんとうに今なすべきことはなんでしょうか。それは「いつか」で、ほんとうにいいのでしょうか、と。

――テーラワーダ仏教のまなざしで

この話には、二つの力がせめぎ合っています。

太郎を竜宮に引きとめる乙姫と亀。これは、わたしたちの内なる煩悩(キレーサ)を掻き立てる、色・声・香・味・触の刺激――わたしたちを引きとめる、外部の刺激のことです。竜宮の美しさ、絶えぬ音楽、かぐわしい香り、山海の珍味、心地よい肌ざわりは、まさに、その五つでした。煩悩そのものは、わたしたちの内にあります。けれど、それを掻き立て燃えあがらせるのは、こうした外からの心地よい刺激に浸り込む私たちの心なのです。そしてその刺激はけっして「もう十分」とは言いません。「もう少し」「まだまだ」と、満ち足りることを知らず、留まることを知らず、いつまでもわたしたちを心地よさのなかに引きとめようとします。そのささやきは太郎がずっと胸のなかで唱えてきた「まだいい、明日がある」と同じ響きを持っています。

一方、太郎の胸に芽生えたうしろめたさ。なすべきことをせず快楽に溺れる自分を恥じ、このままでよいのかと問うこの心を、テーラワーダではヒリ・オッタッパ(慚愧)と呼びます。ヒリは、悪をなすことへの自らへの恥。オッタッパは、その報いへのおそれ。この二つは人を悪から守る内なる番人です。

太郎のヒリ・オッタッパはかろうじて働き、乙姫と亀の引きとめを振り切って竜宮を出させました。けれど――遅すぎたのです。「もう少し、もう少し」と留められているあいだに、すでに百年が過ぎていた。番人が目覚めたときには、なすべきことをなす時間はもう残っていませんでした。

だからこそこの話は、まだ時間のあるわたしたちに問いかけます。人生という命は物事に浸りこんでいるうちに、あっという間に煩悩に食い尽くされてしまう。ほんとうに大切なことは、いま、しなければ、取りかえしがつかないと。


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ばいたらよう(貝多羅葉) 貴重なお布施ありがとうございます!