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短編小説|日が変わる頃には

「では次ソフィアさん、お願いします」
「はい」
ソフィアと呼ばれた女はお願いします、と小さく頭を下げると下を向いたまま口を開く。重ねたえくぼのある手には派手なネイルが施され、何もしない方がかわいいのにと美久は勝手に考える。
 輪になった椅子には女性五人と男性二人、どこかでこの七人が一緒にいるところを見ても共通項を見出すのは難しいだろう。

「お酒が入ってない時は寡黙で。もともとは優しい人だと思います」
このソフィアさんのパートナーも酔うと暴力的になる人だった、と美久は思い出す。ここはパートナーの暴力に悩む人の自助グループ。現在暴力を受けている人もいれば、過去のトラウマに苦しむ人もいる。そんなメンバーが月に二度集まり自分の気持ちを話すことのできる場所。メンバーは流動的で、毎回見る顔もあれば新しい人もいる。「言いっぱなし、聞きっぱなし」が基本で、意見はしない。話せなければ聞くだけでもいい。自分と同じような体験をしている人が身近にいるというのは心強いことだった。

「次はミアさん。お願いします」
「はい、あのー、私今日は聞くだけでお願いします」
「わかりました。では次はエマさん。どうですか」
「はい。よろしくお願いします」
ここでは誰も互いの本名も仕事も何も知らない。ニックネーム——なぜか英語名——で呼び合うのが基本。美久はサンプルから本名に近いミアというニックネームを選んだけれど、呼ぶのが恥ずかしくなるような名前を選ぶ人もいる。右斜め前に座る数少ない男性メンバーのレオを見ると、目を閉じて頷きながらエマの話に聞き入っていた。

「レオさん、今日エマさんの話すごく真剣に聞いてたね」
「えっ、見てた?」
「うん、なんとなく」
まいったな、と言いながらレオはストローでアイスコーヒーの入ったグラスをかき混ぜる。高台にあるこのカフェにレオと来るのは何度目になるだろう。
 自助グループに初めて来た四ヶ月前、帰る前に気持ちを一旦リセットしたくて初めてのカフェに入ってみたらレオがいた。
「よかったら一緒にどうですか」
 同じグループに参加している安心感、二十代後半くらいの同世代、物腰の柔らかさ、今日の出来事を誰かと話したいという気分が美久を頷かせた。以来、自助グループの後一緒にここで会の感想などを言い合うのが習慣になっている。

「今日のエマさんの話、昔僕も似たようなことがあって」
「ああ、だから……」
彼氏と喧嘩をしてカッとなったエマが彼を突き飛ばしたところ、柔道経験のある彼に技をかけられたという。冷静になった彼は平謝りだったらしいが、実際の痛みより逆上して技をかけてきた彼の暴力的な一面への恐怖と不信感が拭えないというエマの話を思い出しながら美久は言った。
「レオさんも技をかけられた? なかなか強い彼女だったんだね」
「あ……そうじゃないんだ」
「ん?」
「彼女じゃなくて、彼氏なんだ」
「……あ」
「格闘技やってる人だった」
「そうだったんだ。なんかごめん、勝手に彼女って決めつけて」
「いや、こっちこそ急にごめん。自助グループではまだそこまで言えなくて。でもミアさんには大丈夫かなって」
「……うん、言ってくれてありがとう」
肩の荷が降りた、と言いながらレオは細い目をますます細くして笑った。

 この後買い物に行くというレオに、もうちょっとゆっくりしていくからと美久は一人店内に残った。氷が溶けて薄くなったソーダを啜る。大きな窓から見下ろす形で臨む街の白くぼやけたような色が外の気温の高さを思わせる。味は普通だし値段もちょっと高めだけど、大きな窓から街を一望できる眺めが気に入って窓際のその席は二人の特等席だった。ふと、ここに一人でいるのは初めてだと気づく。

「お酒が入ってない時は寡黙で。もともとは優しい人だと思います」
ソフィアの話が美久の記憶と重なる。本当におとなしい人だったのに。最初は暴言だったのが怒鳴り声になり、意見をすると髪の毛を引っ張られ手を上げられ、もう無理だと思った。今でも大声で話す男性に接すると動悸がしてくる。だから物腰が柔らかく声のトーンも落ち着いたレオは、美久が心穏やかに話すことのできる久しぶりの、唯一の異性だった。

 ふと、汗をかいたグラスからぽた、と腿のあたりに水滴が落ち小さな染みができた。顔映りいいですね、と店員に勧められ試着をしたら確かに顔色が明るく見えたワンピース。暑いからと久しぶりにばっさり髪を切った時、ロングよりショート派かな、と以前レオが話したことが美久の頭によぎっていた。
「名前も知らないのに」
口の中で小さく呟き、ふっと鼻から息を吐く。ふいに、染みができたワンピースの小花柄がどうしようもなく野暮ったく見えた。
 苛立ちなのか自己憐憫なのか哀しみなのか。持て余しながら美久は思う。でもきっと明日になる前にはなかったことになる、そうやって生きてきた。
 すべて忘れてしまうのだ。日が変わる頃には。


こちらに参加させていただきました

ありがとうございます

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