倫理を求める・コミュニティと知。

キ上の空論「海辺の私たちは」の感想です!※作品のネタバレは含まないのでご安心ください。

「倫理」と言う言葉はことさら日本に生まれ育った者にとって、「倫理観」と言う言葉として浸透し、ざっくり意味を理解し守ることはさほど難しくないと思う。その一方で、その弱さを利用して、時に踏み躙って自身の欲求を満たそうとする者もいる。そんな時、人々の判断には「倫理」がたびたび引き合いに出されると思う。だが、この判断基準すなわち境界線はどこにあるんだろうか。もちろんこの境界線を具体的に持っている人は良いだろう。でも、これがなんとなくで定まっていると人間は弱く、ふとした原因で崩れてしまう。生活や家族などの環境でもその「倫理」は簡単に取って代わられてしまう。あるいは、育ちによって多くの人が触れる「倫理」に触れられないことも少なくないだろう。
だから、必要なのはきっと一瞬立ち止まって迷ってみること。迷って、考えて、一歩を踏み出して信じること。そうして迷い、時に戻りながらもその先にある光を探して歩き続けること。そこに倫理が宿るとチ。で言っていたこと。それが今日、腑に落ちた気がする。

当然のことながら、コミュニティは自身が年を経るごとに変わっていく。私は比較的運がいい人間だったから、居辛さはもちろんあったが反吐を吐く程ではギリギリなかった家族や、学校に行けばクラスメート、友人、部活、委員会などのコミュニティが意識せずとも、確立されていた。だけど、大人になるとそうはいかない。自身がいるコミュニティを自身で選ばなければいけない。自身で例えるが、私は演劇に出会った。演劇で繋がった友人や今も続いているコミュニティが多くある。そして、そのコミュニティは基本「芝居をする・舞台作品を作る」ことを目的にしているおかげで、他者への尊重を前提としている。それに、多くの作品や芝居へのアプローチという広がりを持っている。だが社会を見ていると、会社というコミュニティはそうではない方が多いらしい。そうすると、わかりやすいほうに、より報酬が大きい方に流れやすくなる。(ここでいう「報酬」とは、決してプラスの側面だけを指す者ではない。)と、いうより孤独を感じると、流れやすくなるのだろうと思っている。すなわち、ゴシップなどの刺激やセックス。
だけど年が経つにつれて、やっぱりこれも衰えたり歪んでいってしまう。だからこそ、知り続けようと思うこと。自分の両手の範囲の真理を求めることは、一つの救いになるのだと思う。
過去や歴史が自身の背中を押してくれる。時には歴史が間違っているかもしれない。でもそれを受けた未来がなおも進んでくれる。
これは、生きていく上で一つの旗になるんじゃないだろうか。

そして、本当にそうかはわからないが、これは、さいわいのためのある程度の真理を得ていると、私は思う。少なくとも、この考え方は世の中を、多少、いい方向に持っていくだろうと、思う。だけど私がこれを指針にするだけでは足りない。であれば、対話を求めていない者に、どうしたら、この気づきを、私の意思を伝えられるだろうかというのは、今後も考え続けていかなければいけないと思う。

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