6月5日の7枚:写真と差別。
「写真を撮らない日はあるか」と聞かれましたが、「ない」と答えました。私にとって写真は不随意筋がやっているからで、撮ろうと思って撮っていません。自分が知らない間に撮っています。

撮るか撮らないかを決めるのは「判断」や「意図」ですが、それはボールを打つために腕を動かしてラケットを振ったり、ジャンプするためにしゃがむことと同じです。しかし私の右手にいつもあるカメラは呼吸器と同じですから、撮らないという選択肢はありません。意識して止めたら死んでしまいます。ある美術館で「カメラをはじめとしたすべての荷物を受付に預けるように」と言われたことがありました。カメラがなければ呼吸ができないので、私はその建物に入るのをやめました。

写真が映し出すものは時間と場所です。自分がその場にいてその時間にだけ起きていた奇跡を残します。ですからそこには何が写っていようとも尊いのです。世界にあるすべてのものの中から自分に関わりがあったものを撮る、逆に言うと、それしか撮れないのが「写真」です。

カメラやレンズなんかはどうでもいい。カメラの話をして面白がるのはポルシェとフェラーリに乗っている人が互いに論争しているのと同じで、いつまで経っても「ドライブした話」は出てきません。写真は自分が好きな画角を選び、好きな場所とタイミングでシャッターを切る。それだけなのですが、実は「それだけ」に辿り着くための訓練があります。大げさな言い方になりますが「世界を平等に水平に見ること」です。

写真を見せてもらうとき「ここは普通では撮影許可がおりない場所から撮ったんですよ」とか「この人は有名な人なんです」と聞くとガッカリします。撮った人の手柄ではないし、カメラが水平ではないからです。立派なモノや人や絶景を仰ぎ見て撮っている。撮らせてもらっている、と思っているのです。またホームレスや廃墟や酔っ払いを撮っている人は、美しいと言われているもの、正しいモノ、新しいものの対義語としてそれらを見下している場合があります。カメラは上を向いても下を向いてもダメです。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。
