オレンジの切符
長いっす。
親父の店は、私の最初の社会だった。そして、最初の赦しだった。
私の子ども時代は、炭とタレの匂いだ。
あとは木目がしっかり見える、一枚板の少し高いカウンター。
基本、私が「店の中にいることはダメ」だ。店の中は大人の場所。
私は「上にいなさい」と言われていた。
親父は褒めることが苦手だ。「おう」のほうが多い。
だから私は、褒めてもらいたくて、駐車場で一輪車をしていた。転びながら、何度も。誰かが来ることを期待していた。
そうすると、お客さんが少し疲れた顔をして店に来るの分かった。
疲れてても、私に声をかけてくれる。
「お、うまくなったな」
「もう一回やってみたら?」
私はそれが嬉しかった。
店には、いろんな人が来た。
この店を建ててくれた大工さん。いつもの!といってお土産にして帰るおばちゃん。面白い大手の役員のおじさん。何をしているのか全く分からない樽ハイのお兄さん。真面目な、どこかの議員秘書のお姉さん。きれいなお洋服のお姉さん。知らないとかあり得ない偉い人。とか
当時の私は、そんな肩書きを知らなかった。
ただ、遊びに来てくれる人楽しい人達だった。
あ、親父の顔がちょっと怒り目だ。
でもお客さんの「マスター、いいんだよ。」その一言で、私はまた乗った。
お客さんが言う。
「るーちゃん、オレンジ?」
そのオレンジの言葉で私は中に入れる。オレンジ切符。
大人の世界に入れるって、なんかうきうきした。
私は背の高い椅子をガコガコ引っ張って、木目の一枚板でできたカウンターに座る。
大工のおじさんが言ってた。
「一枚板はな、時間が見えるんだ」
木目の詰まったところを指でなぞると、硬かった。
爪を立てて触れると、ジョリっとそこだけ音が違う。
炭の匂い。焼ける音。
親父は、私を見て、ため息をつきながら、私の大好きなつくねを焼いてくれている。塩じゃない、甘辛いタレ。
店に入れた私は、少しでも長くそこにいたくて、ゆっくり食べる。
つくねをわざと半分残す。
「宿題もってくる!」
食べ終わったら、上に行けって言われるから。そう言って宿題を始める。
大人たちは、静かな声で話すことがあった。内緒話みたいに。私は耳を澄ます。でも、よく分からない。
「あと十年したら教えたる。」
そう言われた気がする。
私は、不思議だった。さっきまで真面目な顔で話していたのに、次の瞬間、笑っている。難しい話でも、笑えるの?私は知らない。
役員だとか、秘書だとか。
でも、繕っていない皆のその顔が好きだった。あの駐車場の前とは違う顔。
親父が仕込みをしているとき、ある日、テレビ局の人が来た。
「〇〇テレビです。取材の件で……」
「テレビすごいじゃん!」
私は本気でそう思っていた。テレビは、すごいものだった。出る=成功。映る=認められる。
でも親父は言った。
「いい。」
取材の人にも、私にも。怒っていない。声も荒げない。
でも、動かない。
私は納得がいかなかった。
なんで?こんなチャンス、ないのに。
でもいまなら分かる。テレビは、分かりやすくする。数分で、この店はこういう店です、と切り取る。
「無口だけど情に厚いマスター」
「地元に愛される名店」
「秘伝のタレが決め手」
きっとそう言われる。でも、それじゃ足りない。
あの輪は、笑い声だけじゃなかったんだ。酔って少し弱くなる人。仕事の愚痴を吐く人。肩書きを脱いで、ただの人になる時間。
あの空気は、編集できない。
オヤジは、味だけを守ったんじゃない。場を守った。
あの人たちが、安心して繕わない顔を出せる場所を。
だから、断った。「いい。」
あれは拒否じゃなくて、守る言葉だったんだ。
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