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地名考察:「杉山神社」の祀るもの


はじめに:「杉山神社」という謎

横浜市や川崎市を中心として点在している「杉山神社」をご存知でしょうか。
どれも比較的小規模ではありますが、長い歴史を感じさせる佇まいをもっています。
この杉山神社は、局所的に存在する地域神の側面がある一方で、各神社の御祭神は一定ではありません。
比較的、五十猛命(イソタケルノミコト)や日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を御祭神としている社が多いようです。
その杉山神社が歴史に登場するのは838年に編纂された『続日本後紀(しょくにほんこうき)』であり、その記述に「枌(杉)山神社」の名が確認できます。
また平安時代に編纂された『延喜式』の神名帳にも、式内社として登場するなど、古くから人々の信仰を集めていたことがわかります。
ただし、この式内社が数ある杉山神社のうち、どこだったのかは未だ分かっていません。

さて、一体この神社は何を祀る神社だったのでしょうか。
今回は、この杉山神社に祀られているものを中心に、その名前の意味を考えていきたいと思います。

「杉」を祀る場所だったのだろうか

安房忌部氏と杉山神社

杉山神社の由緒として、最も有名なものは忌部氏に因むものです。
忌部氏とは、天太玉命(アメノフトタマノミコト)を祖とする古代の氏族で、ヤマト政権での祭祀を担うとともに、麻や織物、紙など、神事に用いる品々の生産にも従事していました。
阿波国(現在の徳島県)を本拠としつつ、各地に分派して地方の祭祀や開拓に関与するなかで、一族の一部は房総半島南部の安房へと移り住んだとされています。
そして、伊勢神宮への奉納用の麻を育てるなど、信仰と生産を結びつけた活動を展開しました。
この「安房忌部氏」は、関東における祭祀文化の定着にも寄与したとされています。

杉山神社の由来も、安房忌部氏に由来するものという説があります。
それによれば、天武天皇の白鳳三年(673年)、安房国安房神社の社主であり、忌部氏の子孫である忌部勝麻呂が、神託を受けたことを朝廷に報告したことにはじまります。
彼は、武蔵国の杉山(枌山)の丘に、簡素な祭儀上である神籬(ひもろぎ)を建て、天太玉命の子孫である天日鷲命(アメノヒワシノミコト)の、さらに孫にあたる由布津主命(ユフツヌシノミコト)を祀ったとされています。
その後、朝廷からの幣帛(へいはく)奉納を受け、格式のある神社として現代まで続いているとされています。

由緒の後付けの可能性

このような由緒は一見、古代から連綿と続く神社の正統性を証するもののように映ります。
しかしながら、その内容を検討すると、いくつかの点で後世の作為、すなわち「由緒の後付け」である可能性が高いと私は考えています。

①忌部氏伝承の利用

忌部氏は、天日鷲命を祖とする系譜を持った、古代日本における有力氏族です。
彼らの伝承をまとめた書物の一つに『古語拾遺(こごしゅうい)』があります。
これは平安時代の初めに忌部氏の斎部広成(いんべのひろなり)という人物が、自分たちの祭祀の功績や歴史を残すために書いたもので、「私たちが神事をずっと支えてきたんだ」という自負が込められています。
その『古語拾遺』以降、忌部氏は関東をはじめ、日本各地に下向して神籬を立て、祖神を祀り祭祀を伝えたという伝承が広まりました。
例えば、現在の千葉県や埼玉県といった地域にも忌部氏ゆかりの神社が点在し、こうした伝承は全国的なパターンとして繰り返し見られます。

これらは忌部氏が自分たちの政治的・祭祀的な役割と正当性を示すために伝え広めてきた物語であり、『古語拾遺』が成立した頃から特に強調されるようになったと考えられます。
つまり「私たちは昔から祭祀を担った重要な一族である」という誇りの表れとも捉えることができます。
特に『古語拾遺』以降、忌部氏は自らの正統性を語るために各地で神籬の創建や祭祀の伝播を伝承化する傾向があり、本事例もその延長線上にあると私は推測しています。

②白鳳年間という年代設定の不自然さ

伝承の舞台とされる「白鳳三年」という年次は、元号としての公式性が曖昧であるうえ、実際に地方神社創建の記録が残る時代というには言い難いように見受けられます。
むしろ、この「白鳳」という用語自体が、後世の史料編纂や由緒を整備するときに用いられた文学的・政治的表現であるようにも感じられます。

③御祭神に感じる作為性

安房忌部氏の由緒が伝えられる杉山神社ですが、点在する現代の杉山神社の御祭神には統一性がありません
伝承の中心に位置する由布津主命という神格は、『日本書紀』や『古事記』といった主要な古典史料に登場しないため、その実体や由来は不明瞭です。

このように祭神が地域ごとに異なる背景には、各地の集落が「式内社である杉山神社」の正当性を競い合う、いわゆる「式内社論争」が深く関与していると推察されます。
つまり「我が村の杉山神社こそが正統である」という地域間の競争や主張が、祭神の再編や神格の多様化を促したと考えられるのです。

また由緒に登場する神々の構成は、地域固有の神、忌部氏など祖先神、そして中央(ヤマト)政権由来の神を三層的に融合させる形となっており、これは後世の権威付けや正当性の強化を狙った意図的な構成の結果であると推察されます。
すなわち、地域に古くから伝わる信仰に権威を融合させることで、神社の由緒に説得力を持たせようとした後世の意図が反映されたものと考えられます。
安房忌部氏に関する説と同様に、出雲系の氏族と結びつける説も存在していますが、いずれも共通する背景に由来すると考えられます。
このような祭神の多様化は、単なる神話の伝播に留まらず、地域社会の政治的・宗教的な駆け引きの結果であり、杉山神社の由緒形成における重要な要素の一つと言えるでしょう。

「どの村の杉山神社が『式内社』なのか」を巡る論争があった

土着的信仰の可能性 −杉山とは何か

ここまで、杉山神社の由緒が安房忌部氏であることに対する疑問を検討してきました。
しかし、これは後世に付加されたものであり、古くから存在したであろう土着的な信仰を説明するには不十分ではないかと考えます。
現在、杉山神社の御祭神は社ごとに異なり、どれが式内社に該当したのかも定かではありません。
それにもかかわらず「杉山」という名称だけは一貫して信仰の核として残っています
この点に着目し、以下では「杉山」とはいったい何を意味していたのか、本来の信仰対象とは何だったのかを検討していきます。

杉山神社の最古の記録は、『続日本後紀(しょくにほんこうき)』(834年編纂)に見えるのは「“枌”山神社」であって、「”杉”山神社」ではありませんでした
この「枌(そぎ)」という字は、訓読みで「そぎ」「にれ」、音読みで「フン」と読まれます。
そもそも「続日本後紀」が記された時代は、文章は漢文で記されていました。
一方で、話し言葉は当然日本語が使われていため、話し言葉に漢字を当てることで表記をしていました。
つまり当時の発音は漢字をそのまま発音した時とほぼ同じになります。
これをふまえると、これまでには提唱されなかった本来の名称の可能性が浮かび上がります。
すなわち、当時は「ソギヤマ」と呼称されていた可能性があるということです。
さらに古代日本語では濁音と清音の区別が曖昧ですから、「ソキヤマ」と「ソギヤマ」が混用されていたとしても不自然ではありません

「ソキ」という言葉は、『万葉集』などに「遠く離れた」「退いた」といった意味で現れる古語です。
漢字では「退き」と表記され、空間的・時間的に離れた対象に使われます。つまり「ソキヤマ」は「遠ざかった山」「退いた山」という意味を持つ言葉だった可能性があるのです。

それでは「退いた山」とは何を指すのでしょうか。
私は、これが「富士山」だったのではないかと考えます。
星の数ほどある山の中で、富士山を信仰対象と考えるのは理由があります。
それは、信仰した人々のストーリーや、杉山神社の位置する地理的特徴を考えると浮かび上がってくるのです。

「富士山」のもとを離れた人々

富士山は現代と同様、太古から人々の信仰対象でした。
一方で、富士山は人類に試練を与える存在でもありました。
富士山は何度も噴火を繰り返すことで山体を成長させていますが、縄文時代にも複数回にわたって大噴火を繰り返し、とりわけ約3,000年前の大沢スコリア噴火では広範囲に火山灰を降らせる大規模な被害を発生させています。
さらに2,000年前の山体崩壊では、発生した泥流が駿河湾にまで達し、御殿場・三島・足柄といった地域は甚大な被害を受けました。
こうした災害は、富士山麓に暮らしていた人々が移住しなければならない状況を引き起こしたと推察されます。

富士山の噴火は広範囲に大きな影響を与えた

彼らはさまざまな場所へ移ったと推定されますが、そのうち東京湾内に逃げ延びてきたグループがいたことは想像に難しくありません。
縄文時代には、すでに人々は海洋での移動を通じて、離れた地域の集団と交易を行なっていたことが分かっています。
例えば、横浜市内の遺跡においても、当時の東海地方の特徴を持った土器が出土しています。
それは、富士山の噴火被害によって移住を余儀なくされた集団が、東京湾内を定住の地とした可能性を示唆しています。

定住の地を探して船を漕ぐ

現在、杉山神社は鶴見川や帷子川の中下流域に集中して分布しています。
上流域や他の大河川(多摩川・相模川・荒川など)の流域ではほとんど見られません。
この分布は、杉山信仰を持つ人々が、海から河川を遡上しながら広がっていったことを物語っているようです。

遠くなった富士山を高台から望む

さらに杉山神社(特に式内社の候補とされている神社)が共通して「小高い丘」に鎮座している点は特筆すべきです。
つまり富士山を遥拝できる場所が神聖視されていたと考えられるのです。
だから杉山神社の多くは周囲より高い土地に建立されているのです。
これは、江戸時代に隆盛を極めた富士講による「富士塚」や、富士山信仰を源流とする「浅間神社」が、いずれも富士山を望む見晴らしの良い場所に位置していることと類似しています
現在では周囲の開発や植生の変化により、必ずしも視界が開けているとは限りませんが、往時にはそうした丘から富士山を望むことができたのでしょう。
人々は、信仰の中心であった富士山を「退いた山(ソキヤマ)」として遥拝し、その信仰を新たな土地に受け継いだのです。

山々の向こうに富士山を望む

やがてヤマト政権の勢力が関東にも及ぶようになると、在地の信仰は体系化され、記紀神話の枠内に組み込まれていきました
そして富士山に対する原初の信仰は、ヤマト政権の宗教観による上書きや、各社の正統性を巡る競争のなかで失われていきました。
そうした過程の中で、もともと音で伝承されていた「ソキヤマ」は、表記の必要に迫られ「枌山」となり、さらに意味が取られやすい「杉山」へと変化したのではないでしょうか。

杉山・ソキヤマ・富士山

この仮説は、いくつかの点で杉山神社の特異性を説明することができます。

  • 信仰対象の不明確さは、元々が「遠ざかった山」への祈りだったため、神名や神格が固定されなかったから。加えて、のちの時代に有力氏族を由緒とすることで正統性を担保したり、「式内社論争」における集落間の社会的・政治的競争に左右されたりしたから。

  • 杉山神社の分布が限定的であるのは、信仰を持ち込んだ移住者集団の行動圏と一致しているから。

  • 「枌山」と記されたのは、当時の発音が「ソキヤマ」だったから。

  • 多くの社が小高い丘の上にあるのは、富士山を遥拝するための地形的条件として適していたから。

これらの点を踏まえると、「杉山=富士山」という説は、単なる語呂合わせではなく、整合性を備えた仮説であると考えています。

おわりに:受け継がれる信仰

この仮説を思い付いたきっかけは、私がある杉山神社を訪れた際、そこから富士山の姿が見えたときでした。
横浜から富士山を眺めると、そのほとんどが丹沢山地、あるいは箱根山地に隠れてしまいます。
山頂や上半分程度は見ることはできますが、残念ながら全容を収めることができません。
彼らが捨てざるを得なかったのは、ただの土地ではありません。
信仰の拠り所であり、暮らしの中に息づいていた富士山そのものでした。
新天地に移ってなお、彼らはその山を遥拝し続けたのです。
杉山神社とは、単なる土地神の社ではなく、「失われた山」への祈りを託した記憶の地形であったのではないでしょうか。
現代のわれわれにとっても、こうした見えない山への祈りが、どこか心の奥深くに響くものを持っているように思えてなりません。
杉山神社は、過去の災厄の記憶、そしてそれでもなお続けられた祈りの痕跡を、静かに語り続けているのかもしれません。


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