萩焼の「七化け」に教わる、生き方の美しさ
半年前のふとした日、私は萩焼のお茶碗と急須を購入した。
「萩の七化け」と呼ばれるその佇まいと、どこか儚げで淡い色合いに心が惹き寄せられたからだ。それまで使っていた器もあったけれど、「この器と一緒に、長い年月を重ねてみよう」と思い切って手元に迎えたのだった。
今日、そのころの手帳を久しぶりに開いてみると、こんな言葉が記されていた。
「土(地)、火(熱)、水、そして職人の手。 すべてが大きな流れの中で出会って形になる。 すべては、大きな流れがその器に与えた個性。」
完璧な磁器になろうとはせず、土の性質に素直に従い、窯の強い炎に身を焼き、そこで偶然生まれたピンク色の斑点を静かに受け入れる。
「この斑点は嫌だ」なんて拒絶することもなく。 「この持ち主は嫌だ」なんて選り分けることもなく。 ただ与えられたそのままをすっと受け入れて、そこに存在する。
そして長い年月をかけて茶しぶを吸い込み、世間では「汚れ」と呼ばれるものさえも、唯一無二の味わ増や「個性」へと変えていってしまう。
萩焼の特徴である「貫入(ひび割れ)」は、時として水漏れを起こしたり、色が染み込みやすかったり、欠けやすかったりもする。 便利さや効率、頑丈さばかりが求められる現代の基準から見れば、それは「欠点」や「扱いづらさ」に見えてしまうのかもしれない。
けれど、かつての茶人たちはその不完全さにこそ「侘び寂び」を見出し、使い込むほどに姿を変えていく器を「育てる」という豊かな時間を愉しんでいた。
器のその姿に、思わず「見習わなきゃなぁー」と心が動く。
人間も、まったく同じなのではないだろうか。
完璧で傷ひとつない「正解」の形になろうと背伸びをしなくてもいい。 人生の過程でできた傷や、一見「欠点」に見えるような不器用さ、あるいは思いがけずについてしまった心のシミや凹み。
それらを「こんな自分は嫌だ」と排除するのではなく、大きな流れの中で与えられた「私だけの味わい」として、すっと受け入れていくこと。
不完全なまま、変わりゆく自分を愛おしみ、大切に育んでいくこと。
土と火と水が織りなす萩焼の器のように。 私もまた、自分に訪れるすべての出来事を静かに味わいへと変えながら、ただ私という存在を愛おしく咲かせていたい。
