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短編「本能」

 5月も半ばを過ぎると、一気に暑さが増すような気がする。田んぼ沿いの、狭い、それでもコンクリートで舗装された道を歩きながら、鈴香はパタパタと手のひらで首元をあおぐ。目深に被った白いキャップのつばの内側に、苗を植え付けたばかりの田んぼの水面がキラキラと模様を描く。

「人間ってさ、宝石とかキラキラ光るものが好きでしょ。あれって実は、『水』が関係あるらしいんだよね」

 昼過ぎの強い陽射しを受けて輝く田んぼの水面を眺めながら、鈴香は今年の春に異動した工場長の、少年のような目を思い出す。若くして田舎の工場を任された彼の真剣な佇まいと、二人だけの時に鈴香に向けられる甘やかな笑顔、そして薬指に光る指輪のことも。

ーー不倫

 わたしたちの関係を、世間はそう呼ぶらしい。当然、そんなことは前から知っていたけれど。一度言葉にしてしまえば、わたしたちの関係はそれ以下でも以上でもないもののように思えるけれど、それでもわたしたちは「不倫」なんていうものからは程遠いところにいたと、鈴香は今でもそう思っている。あの特別な時間に名前なんて付けられない、と。

 工場長が異動させられてからも、そして、わたしと同じようにパートで働く「おばちゃんたち」が、副工場長に密告したらしいということを知ってからも、鈴香は素知らぬ顔で働き続けた。「図太い」「図々しい」と言われるたびに、なんで「図」がつくのだろうなんて考えたりしながら。

「水はほら、人間の生命維持に不可欠でしょ。太陽の光に当たってキラキラ輝く。だから人間は本能的に、キラキラ輝くものを水だと認識して、それで、宝石なんかにも惹かれちゃうんだって」

 鈴香は「本能」について考える。今もまだ工場長に会いたいと思うのは本能なのだろうか。それを本能だなんて思うのは、ただの妄想なのだろうか。「不倫」する男女なんて、世間から言わせてみれば、家族に責任を果たさないクズな男と、家族がいるとわかっていながら手を出すクズな女のペアでしかないのだろう。それでも、世の中には不倫に関する映画もドラマも、恋愛ソングだって溢れているし、やっぱり愛ってそう単純じゃないんだと、純粋な愛だって、彼に本能的に惹かれるこの気持ちだって、出会う順番が違っただけでと、そんなふうに考えること自体が、他人にとっては気持ちの悪い思考なのかもしれないけれど。

 輝く水面を見れば、あるいは輝く宝石を見れば思い出してしまう彼のことをどう忘れればいいのかわからない。彼からの連絡が途絶えたのはしょうがないと思えたけれど、鈴香の髪を優しく撫でてくれる彼の大きな手のひらの熱さをもう感じられないというのは、しょうがなくないことのように思える。
 工場からの帰りに通るこの田んぼ道の眺めが黄金色になったら忘れられるだろうか。あるいはマフラーを巻いて退勤する頃には……。

 強かった陽射しの色が、段々赤味を帯びてきて、ずっと続く田んぼ道が、もうすぐ終わる。大きい道路に出る前に音楽でも聴こうと、カバンの中のイヤフォンに手を伸ばし、けれど、自分のことだけしか考えられないわたしのような頭の悪い人間には恋愛ソングなんて聴いて悲しみに浸る権利はない、と思い直す。イヤフォンがカバンの中で転がり、鈴香は大きな道路に出るための赤信号の前で、静かに立ち尽くした。

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