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短編「天然」

 トーストの香ばしい香りに、新は薄く目を開ける。見馴れないベッドに、見慣れないパジャマ。見馴れないカーテンの外で、土砂降りの雨が降る音が聞こえる。昨日はたしか家に帰った後、一杯飲んでから寝ようと近所のバーに行ったんだったと、新は自分の行動を思い返す。それで、どうしたんだっけ。ひんやりとした床にそっと足を下ろし、扉の向こうから聞こえてくる鼻歌の正体を思い出そうと思考を巡らす。
 オリーブをつまみに白ワインを飲んで、途中何人かの常連客と言葉を交わすうちに、明日は休みだしと、いつもは三杯までと決めているのをあまり気にせずに何杯か飲んだんだ。それで……。

 ガチャリと目の前の扉が開き、新はほとんど跳び上がるようにしてベッドの上に足を引っ込める。
「あ、おどかしちゃったね。どうもすみません、先生」
 「どうもすみません、先生」というフレーズに聞き覚えがあった。何となく片言のように聞こえる日本語にも。恐る恐る顔を上げる。
「え、エリック先生!」
「覚えてくれていた、嬉しい。昨日のことはあまり覚えていないのようですが」
 そう言って笑う彼は、三年前、ウィーン大学の学会で出会った現地の大学教授だった。年齢も近く、ヨーロッパの政治について研究している新と、日本の政治について研究しているエリックが交流を深めるのはほとんど当然の流れで、エリックは昨年から、この近くの大学に教員として滞在しながら研究を進めているらしい。昨日のバーでたまたま出会い、エリックが言うには、お互いに政治について相当熱く語っていたようだ。新は家から一時間半かかる大学に勤務していたから、近所の小さなバーで出会ったのは本当に奇跡のようなものだ。(もちろん、昨日のバーでもこの奇跡を大いに喜び合ったそうだが、新は覚えていなかった。)
 四十手前にもなって酒で記憶をなくすなんて、それも尊敬している仲間の前で、と思うと恥ずかしかったが、エリックが手早く作ってくれた朝食がおいしく、なんだかどうでもよくなる。

「それにしても、新先生は全然かわりません。天然、というのですか。三年前、ウィーンでの最後の日も、ホテルのバーで、お酒をたくさん飲んで、私を口説きました。あれはまだ期限が切れていませんか」
 何のことを言われているのかわからなかったけれど、それを悟られてはあまりにも失礼だ。今、自分は、学生に「先生、現在のヨーロッパの政治はハプスブルク家時代の政治も関係があるということですか?簡単に言うとどうなりますか?」と質問されたときと同じ顔をしているに違いない。エリックに好意を寄せているのは確かだけれど、昭和生まれの自分にはカミングアウトなんて遠い世界のことだと思っていたのに。酒の力を借りて行動を起こした三年前の自分が憎い。もし昨日も同じことをしてしまっているとしたら、もしバーで、他の人のいるところでそんな発言をしてしまっていたら……。冷静を装いきれず目を泳がせている新の肩に、エリックがそっと手の平を置く。
「新先生、昨日は大丈夫。バーでも、うちでも、なにもないです。三年前は、周りはみんな外国人だったから、私たちの日本語、わかりません。ね。新先生、三年前のことも、覚えてないね。やっぱり、天然。今の顔も」
 エリックが「天然」の意味をどうとらえているのかはよくわからないけれど、新の気持ちをわかってくれていることに安心する。
「今日は雨がすごいですから、ゆっくり映画でも観ましょう」
 そう言って優しく微笑むエリックに、新もゆっくりうなずき微笑み返した。




こちらの作品も、短編小説集『世界が平和でありますように』の書き下ろしとして書き始め、やはりボツにしてしまったものです。Instagramとnoteにて、供養させていただきます🌷

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安藤小織 読んでくださりありがとうございます! 「読んでよかったな」と思ったら、無理のない範囲で応援していただけると嬉しいです◎あなたのおかげで、今日がわたしのチップ記念日になります♡